自由党とコロラド党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 22:43 UTC 版)
「パラグアイの歴史」の記事における「自由党とコロラド党」の解説
三国同盟戦争後、政治的にはブラジルが、経済的にはアルゼンチンがパラグアイに大きな影響を与え、同時に政治は恒常的な不安定によって支配された。1880年代に大統領を務めたベルナルディーノ・カバジェロ(スペイン語版)(任:1880-1886)とパトリシオ・エスコバル(スペイン語版)(任:1886-1890)の二人の将軍の時代には軍事力を背景にした安定が確立され、この時期にはイタリア、ドイツ、スイスなどからの外国移民や、アルゼンチン資本をはじめとする外国資本がパラグアイにも流入し、また、エスコバール政権期の1887年には後の主要政党となるコロラド党と自由党が結成された。20世紀に入ると、1904年に自由党が革命を起こしてコロラド党政権を打倒し、以降1936年まで自由党が政権を担当することとなった。自由党政権も不安定ではあったものの、秘密投票制の導入や教育の普及などの漸進的な改革が進み、1928年には初の複数候補による大統領選挙が実現された。 20世紀初頭には国土西部のチャコ地方を巡ってボリビアとの対立が始まったため、1907年に両国の武力衝突を回避するために、アルゼンチンの仲裁によって暫定国境線が引かれた。1920年代に入り、緊張が再燃すると、両国は軍拡競争や、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージーのような先進国の国際石油資本の意向を巻き込んで対立を尖鋭化させた。
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