自由党と未来同盟
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オーストリア自由党(FPÖ)は、当時のナチスメンバー、旧ドイツ帝国領から追放されたドイツ人、帰郷者たちが設立した自由独立同盟(ドイツ語版)に由来して1956年に結党された。イェルク・ハイダーが党首になり党内のリベラル勢力を排除した1986年からは、「過剰外国化」が頻繁に取り上げられるようになった。ハイダーが政治活動を始めるきっかけになったのは、彼が1966年にオーストリア体操連盟(ドイツ語版)の弁論大会で、「我々オーストリア人はドイツ人なのか?」という演説をして優勝したことだった。 ヒルマー・カバス(ドイツ語版)は1998年2月に、「ウィーンの外交政策――過剰外国化を止め、故郷を守る」についての議論をウィーン市議会に持ち込んだ。同年、ハイダーは、日刊新聞『ディー・プレッセ(ドイツ語版)』のインタビューで次のように述べている。 「 国籍付与とEUの東部拡大によって過剰外国化の脅威がさらに差し迫っている。連邦政府は、これまでの選挙民では指示されないので、新しい選挙民を増やそうとしているのではないかと推測している 」 1993年、オーストリア自由党は、オーストリア国民請願(ドイツ語版)を申請し、移民流入の阻止、外国人の職場での身分証明書提示義務、クラスで外国を母国語とする児童の数を減少させることを要求した。 1999年のオーストリア国政選挙(ドイツ語版)では、ウィーン選挙区の自由党員、特に自由党ウィーン州総裁のヒルマー・カバスと、ウィーンの最有力候補であるヘルベルト・シャイプナー(ドイツ語版)は、次のようなスローガンを掲げた。「我々は過剰外国化の阻止を必ず実現します――オーストリアを第一に!」。このキャンペーンは、他党だけでなく、教会、メディアや論壇からも、ナチスの言葉使いを復活させて、外国人嫌悪の傾向を煽っていると極めて強く批判された。ヨーロッパ人種差別・外国人敵視監視室(ドイツ語版)は、次の点を確認している。 「 1999年のオーストリアの選挙では、「主要」メディアのいくつかが、オーストリア自由党の選挙広告を掲載し、「過剰外国化」という言葉を一般に広めた。 」 2005年にイェルク・ハイダーの指導によって自由党から分裂したオーストリア未来同盟にとっても、2006年のオーストリア国政選挙(ドイツ語版)では「外交政策と移民政策」が主要な政策課題であった。当時党総裁だったペーター・ヴェステンターラー(ドイツ語版)は、「100万人もの外国人は多すぎる」とし、「移民流入阻止、3年以内に外国人の3割減少」を掲げた。その際に彼は、1993年の国民請願である「オーストリアを第一に!」にも言及した。 「過剰外国化」に対する闘争は、オーストリア自由党、その下部組織、各代表者がもつ政策綱領の基本要素である。自由党の青年部であるオーストリア自由青年の輪(ドイツ語版)は、「過剰外国化阻止」に重点を置いている。 「グーデヌスは、制度的な民族転換の終焉を要求」というタイトルのもとで、オーストリア自由青年の輪の全国総裁であるヨハン・グーデヌスは、2004年の記事のなかで組織の理想像に言及しながら、オーストリア政府が「規則的に移住を進めることは、驚くべき反オーストリア的な要求」であり、「オーストリア人の面目を潰している」とした。「ザルツブルク自由学術協会」の論文によると、「外交政策、外国人・滞在・移民政策の目的は、……移民との多文化主義的な擬似統合などではなく、実際にはオーストリアの労働力需要を満たすためだ」。外国人に対する厳しい態度だけが「我が国の過剰外国化」を防ぐことができるだろうと彼らは主張している。 ハインツ=クリスティアン・シュトラーヒェは、すでオーストリア自由青年の輪の幹部だったころに、「ウィーンの生徒たちは、過剰外国化に苦しんでいる」(2004年11月27日)と主張していた。2006年5月6日のウィーン州議会で、自由党総裁になっていたシュトラーヒェは、新たに「過剰外国化」と「民族転換」について発言した。歴史上、これまで二度も「ウィーン包囲を撃退した」ので、「戦闘服を着ること」を要求した。オーストリア人は、「我々の先祖が理由なく戦っていたわけではない」ことを思いだすべきあるという。
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