自然科学・医学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:33 UTC 版)
「ウィーン学派 (医学)」も参照 物理学の分野では、統計力学の端緒を開いたほか、電磁気学、熱力学、数学の研究でも知られるルートヴィッヒ・ボルツマン(1844年 - 1906年)やモラヴィア生まれでアインシュタインに多大な影響を与えたエルンスト・マッハ(1838年 - 1916年)が著名である。ボルツマンはウィーン大学で自然哲学講座を受け持ったが、彼はゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルのみならず、その批判者であるアルトゥル・ショーペンハウアーの哲学をも痛烈に批判した。彼によれば、哲学が不毛な思弁に陥っているのは「問題提起」、すなわち正しい問いに対する反省がないこと、問題の立て方に問題があること、言葉遣いが適切であるかどうかについて無自覚であることによるものであり、その点ではヘーゲルもショーペンハウアーも変わりがなく、哲学が対象にすべき範囲を限定した。 生物学の分野では、シュレージエンの農家に生まれ、エンドウマメの研究から世紀の大発見「遺伝の法則」を発見した修道士グレゴール・ヨハン・メンデル(1822年 - 1884年)がいる。メンデルの研究は生前世に容れられなかったが、メンデルは「やがて私の時代が来る」と言ったとされる。エンドウマメの研究は、もとより植物の交雑に関する学問的興味に基づくものではあったが、修道院の食卓をより豊かにするために粒が大きく味のよい多収量の豆を開発したいという思いから始められたものだという。メンデルの研究は、その死後16年たった1900年、それぞれ独自に研究を進めていた3人の研究者によってほぼ同時にその真価が認められた。 医学分野では、ウィーンの世紀末は公衆衛生学に独特の展開をみせたといわれる。この分野では、精力的な病理解剖をおこなったカール・フォン・ロキタンスキー(ドイツ語版)(1804年 - 1878年)、ロキタンスキーの膨大なデータを整理して近代的な診断学をつくりあげたヨーゼフ・フォン・スコダ(ドイツ語版)(1805年 - 1881年)、近視の原因を発見し、眼科学の科学的研究の基礎を築いたフェルディナント・アールト(1812年 - 1887年)、麻酔法や胃の切除で新しい技術を確立したテオドール・ビルロート(1829年 - 1894年)、「整形外科の父」とよばれ、無血外科治療を考案したアドルフ・ローレンツ(動物学者コンラート・ローレンツの父)、ABO式血液型を発見したカール・ラントシュタイナー(1868年 - 1943年)など錚々たる名前が並ぶ。ヨーゼフ・ヒルトル(1810年 - 1894年)による解剖標本もまた、世界中から競って求められた。 プロイセン出身のテオドール・ビルロートは、普墺戦争直後に皇帝に招かれてウィーン大学医学部教授となった。彼はフランツ・ヨーゼフ1世の寛容さについて、以下のように驚嘆の声をあげている。 まるで小説みたいじゃないか! この俺が帝国の医学部教授に、しかも皇帝陛下じきじきの命を受けて就任するなんて! この、38歳のプロイセン野郎、プロテスタントの異端者が! こうしたウィーン医学の隆盛はしかし、1938年のアンシュルスによって断ち切られるように終焉を迎えた。医学関係者にはユダヤ系の人材が少なくなく、ある者は強制収容所に送られ、ある者は亡命の道を選んだからである。アセチルコリンの医学への応用で知られる、グラーツのオットー・レーヴィ(1873年 - 1961年)もそうした一人であった。亡命者の多くがアメリカに渡ったことによって、医学界の共通語がドイツ語から英語へ切り替わったとする見方さえ存在するほどである。
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