自然科学分野での研究と著作
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「エミリー・デュ・シャトレ」の記事における「自然科学分野での研究と著作」の解説
1737年にエミリーは Dissertation sur la nature et la propagation du feu (自然および火の伝播に関する論考)と題する論文を出版した。これは火に関する彼女の科学的研究に基づいており、現在赤外線として知られているものを予言し、光の本質を議論している。エミリーは光と熱の関係について研究し、人間の目に見えない光があることを推測する136ページの論文を書いてパリ王立科学アカデミーの懸賞論文に応募した。エミリーの論文は選外佳作として紀要に掲載され、学者としてのエミリーの評判のきっかけとなった。モーペルテュイなど多くの学者が彼女の論文を応募作の中でも圧倒的に秀逸だと評価した。不可視の光があることは、70年後にウィリアム・ハーシェルが実験により証明した。 1740年、『物理学教程』を出版し、アイザック・ニュートンとゴットフリート・ライプニッツの著作に基づいた新たな物理学をフランスの科学界に紹介した。初版は匿名で、1742年の新版刊行時に名を明かした。数学者レオンハルト・オイラー、イギリス人数学者ジェイムズ・ジュリン(1684-1750)、ドイツ人哲学者クリスティアン・ヴォルフらに自著を贈った。1740年に著されたInstitutions de Physique (物理学講義)は、彼女の当時13歳の息子が学ぶべき科学および哲学の新概念を概説したものだが、当時最先端の知識人達による複雑な概念をも内容に含んでいた。この中でエミリーはゴットフリート・ライプニッツの理論とヴィレム・スフラーフェサンデ (en:Willem 's Gravesande) の実践的な観察を組み合わせ、運動する物体の持つエネルギーが質量と速度の自乗に比例する ( E ∝ m v 2 {\displaystyle E\propto mv^{2}} ) ことを正しく示した。しかし、当時はアイザック・ニュートンやヴォルテール達の見解である「速度そのものに直接比例する」が正しいと信じられていたことから、エミリーの見解は大論争を引き起こした。結果的に彼女の考えが受け入れられたのは死後、100年が経ってからである。なお現在では正確な表式は E k = ( 1 / 2 ) m v 2 {\displaystyle E_{k}=(1/2)mv^{2}} だと知られている。ここで E k {\displaystyle E_{k}} は物体の持つ運動エネルギー、 m {\displaystyle m} は質量、 v {\displaystyle v} は速度を表す。 エミリーは1749年に亡くなるが、この年になって代表的な業績を完成させた。すなわちニュートンのPhilosophiae Naturalis Principia Mathematica (プリンキピア・マテマティカ、自然哲学の数学的諸原理)を、注釈を付けつつラテン語からフランス語へ全訳したことである。これには力学の原理を元に彼女が導いたエネルギー保存則の概念が含まれている。 『プリンキピア』の翻訳は、しばらく日の目を見ず、没後10年経った1759年にヴォルテールによって刊行された。ハレー彗星の1758年の再来によってニュートンの万有引力の法則に注目が集まり、彼女の著作を世に出す好機となった。刊行後、多くの称賛を得た。 現在でもプリンキピア・マテマティカの仏語訳と言えば彼女のものが代表的である。
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