サービア教徒のハラン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:33 UTC 版)
月神や星辰を崇拝していた人々は9世紀以後、アッバース朝の支配下で啓典の民の一つ「サービア教徒」を名乗り、ハッラーンを中心に独自の信仰を育んでゆく。ハッラーンの住民が「サービア教徒」を名乗るきっかけとして、830年の出来事が挙げられる。この年、アッバース朝のカリフ・アル=マアムーンが東ローマ帝国への遠征の途中にハッラーンを通過したが、ハッラーンの住民が異教を信じていることに驚き、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など同じ啓典を信じる「啓典の民」への改宗を命じた。ハッラーンの住民はアッバース朝支配下で生きるため、クルアーンに言及される啓典の民の一つであるサービア教徒であると自称した。イラク南部にあったグノーシス主義のサービア教は当時すでに衰退しておりその実態はほとんど知られていなかったことが好都合な点であった。ハッラーンの自称サービア教徒と、クルアーンに言及されたサービア教徒との関係は、以後論争の的となる。 8世紀末から9世紀にかけ、ハッラーンでは古代ギリシャ語の天文学・哲学・自然科学・医学の文献をアッシリア人がシリア語に訳し、さらにアラビア語に翻訳していた。バグダードが翻訳および学問の中心となるまでの間、ハッラーンが古代地中海世界の知識をアラブ世界へと導入する学問の中心地となった。自然科学や医学における重要な学者がハッラーン出身の非アラブ人・非ムスリムの人々(サービア教徒やアッシリア人など)から多く輩出されたが、重要な化学者であるジャービル・イブン=ハイヤーン(ゲーベル)がハッラーンで学んだという説もある。 1032年または1033年、農村部の餓えたシーア派住民や都市部の貧民によるムスリム民兵組織が蜂起して大都市ハッラーンを襲い、サービア教の神殿やサービア教徒のコミュニティを破壊し、以後サービア教徒は離散し消滅した。1059年から1060年にかけ、神殿は西ジャズィーラ(ディヤルムダル)地方で勢力を増していたアラブ人王朝(Numayrids)により要塞化された王宮として再建され、ザンギー朝のヌールッディーンはこれを強固な要塞へと変えた。
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