群盲(ぐんもう)象(ぞう)を評(ひょう)・す
群盲象を評す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/09 15:28 UTC 版)
群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす、群盲評象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。世界に広く広まっている。しかしながら、歴史を経て原義から派生したその通俗的な俚言としての意味は国あるいは地域ごとで異なっている。真実の多面性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。盲人が象を語る、群盲象をなでる(群盲撫象)、群盲象を撫づなど、別の呼び名も多い。[1]
その経緯ゆえに、『木を見て森を見ず』 と同様の意味で用いられることがある。 また、『物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう』 ことの、例えとしても用いられる。
さまざまな思想を背景にして改作されており、ジャイナ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などで教訓として使われている。ヨーロッパにも伝わっており、19世紀にはアメリカの詩人ジョン・ゴッドフリー・サックスがこれを主題にした詩を作っている。
あらすじ
この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場する。盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、その感想について語り合う。しかし触った部位により感想が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まる。しかし何らかの理由でそれが同じ物の別の部分であると気づき、対立が解消する、というもの。
ジャイナ教
ジャイナ教の伝承では、6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっている。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」と[2]。
この話の教訓は、同じ真実でも表現が異なる場合もあることであり、異なる信念を持つ者たちが互いを尊重して共存するための原則を示している。7人の盲人とされる場合もある。これはジャイナ教の相対主義の考えに基づく説話である[2]。
仏教
仏典には教養の無い者、とりわけ仏教の教えを信じない者を群盲(盲人の集団)に例える記述が数多くある。群盲評象の話も数か所に掲載されている。
パーリ仏典自説経では、釈迦はさまざまな邪見に基づいて論争する沙門バラモンをとりあげて、彼らを群盲評象にたとえ、一部だけを見て、その一部分に執着して論争していると説いている[3]。
長阿含経では鏡面王という人物が10人の盲人を集め、それぞれが鼻を曲がった轅、牙を杵、耳を箕、頭を鼎、背を丘阜、腹を壁、後ろ足を樹、膊(膝)を柱、跡(前足)を臼、尾を緪(綱)に例える話になっている[4]。大樓炭経も尾のたとえが蛇になっている他は長阿含経とほぼ同じである[5]。
起世経でも鏡面王が主催だが、鼻を繩、牙を橛、耳を箕、頭を甕、項を屋栿、背を屋脊、脇を簟、髀を樹、脚を臼、尾を帚と例える物が少し変わっている[6]。
大般涅槃経では、[7][8][9]衆盲各手以手触…衆盲不説象体亦非不説(衆盲各おの手を以て触る…衆盲象体を説かず亦(ま)た説かずとも非ず)などとの表現で、[10]象が仏性の比喩として述べられている。[11][12]仏性は、仏以外の無明の衆生はもちろん十住の菩薩でさえも十分完全には知りえない仏教の究極の真理すなわち勝義である。[13]しかしながら、まったくの断善根であっても仏に成れる可能性があるとも説く。[14]
華厳経では、牙を根、耳を箕、頭を石、鼻を杵、足を臼、背を床、腹を甕、尾を蛇となっている[15]。いずれの教えでも、世の真理を知るには仏教の教えが必要だと結論している。
13世紀に成立した『五灯会元』にも「盲摸象」の語が数回登場する。
19世紀の初めに出版された『北斎漫画』第8冊の中にも、この話を元にした絵が掲載されている[16]。
イスラム教
今日のアフガニスタンのガズニーに住む12世紀のペルシア人のスーフィズム詩人、ハキーム・サナイは、その著書『壁に囲まれた真理の園』の中で、この話を紹介している[17]。
13世紀、ペルシア人の詩人でスーフィズム教師のジャラール・ウッディーン・ルーミーは、その著書『精神的マスナヴィー』の中でこの話を詩にしている。ルーミーはサナイの影響を強く受けており、この詩のヒントもサナイの詩集から得ているが、話を「暗闇の中のゾウ」と少し変化させている。この詩は、あるヒンドゥー教徒が暗闇にゾウを連れてきたことで始まっている。数人の男が暗闇の中でゾウに触れて感想を述べ、鼻を水道管、耳を扇、足を柱、背を玉座のようだと感想を述べた。ルーミーはこの詩を「視野の狭い者は、手の感触で物を知ろうとしているに等しい。手の感触では物事の全体は分からない。各々がロウソクを持っていれば、認識の違いは無くなるのに」と結んでいる[18][19]。
ジョン・ゴッドフリー・サックス
欧米では、19世紀のアメリカの詩人ジョン・ゴッドフリー・サックスが1872年に発表した詩 "The Blind Men and the Elephant" によりこの話が有名になった。
インドで6人の盲目の男が、ゾウに会いたいと出かけて行った。彼らはそれぞれが異なる部位を触った上で、象が壁、蛇、樹、扇、ロープのようであると主張し、意見が対立した。サックスは言う。神学論争はこれに似ている。彼らは別の人の意見を理解することができていないと[20]。
20世紀のハンガリー生まれのイラストレーターポール・ガルドンは、1963年に出版されたこの本にイラストを描いている。
中国生まれのイラストレーターエド・ヤングは、1992年にサックスの話を改作した絵本『Seven Blind Mice』を描いている。
国または地域ごとの諺としての意味
日本
日本では、凡人が大人物、大事業を理解し難い有り様の直喩、として使われる用語である。[1]
近年の引用
19世紀のインドの宗教家ラーマクリシュナは、1883年他宗に不寛容な人々を諭すため、この寓話を引用している[21]。
デヴィッド・ボーム(David Bohm)は1951年に出版した『量子論』の中で、粒子と波動の二重性を説明するのにこの話を引いている[22]。
20世紀のインドのスーフィズム研究家イドリース・シャーは、1970年の著書『The Dermis Probe』の中に、微小な視野からだんだんと広げていき、最後にようやくゾウの全身が見える様子の話を載せており、この話はリチャード・ウィリアムスによって4分間のアニメーションにもされている。この話は「群盲象を評す」をヒントに作られたものである[23]。
アメリカの作家ニール・スティーヴンスンは、2008年に発表した長編小説『Anathem』の中で、この話を引いている[24]。
HIVの研究家ミハエル・レーダーマンは、2008年の論文の中で、多クローン性B細胞反応におけるB細胞の振る舞いがこの話に似ていると述べている[25]。
ミシガン大学の研究者、アーロン・エルキス、ドゥラゴミール・ラデフらは、2008年の論文の中で、論文の引用は引用先の一面のみを捉えているために偏りがあり、引用文の集合を要約してもなお引用元論文の概要文とは差異があることを示している[26]。
2010年、製薬会社のバイエルは、目隠しをした女性がサイを触って正体を言い当てる、という趣旨のテレビコマーシャルの中で、避妊製品を部分的な情報で選ばないよう宣伝している[27]。
絵画・挿絵
参考文献
- ^ a b 小学館国語辞典編集部, ed (2001-04). “群盲象を評す”. 日本国語大辞典. 4 きかく~けんう (2 ed.). 小学館. p. 1188
- ^ a b “Elephant and the blind men”. Jain Stories. JainWorld.com. 2006年8月29日閲覧。
- ^ 自説経,6.4(Jaccandha-vagga)
- ^ 大正新脩大藏經テキストデータベース 長阿含経
- ^ 大正新脩大藏經テキストデータベース 阿含部大樓炭經
- ^ 大正新脩大藏經テキストデータベース 起世経
- ^ 曇, 無讖 (1925-06). “大般涅槃経巻三十二師子吼菩薩品第十一之六”. In 高楠順次郎. 大正新脩大蔵経. 12 宝積部 下・涅槃部. 大正一切経刊行会. pp. 555-556
- ^ 曇, 無讖 (1925-06). “大般涅槃経巻三十四迦葉菩薩品第十二之二”. In 高楠順次郎. 大正新脩大蔵経. 12 宝積部 下・涅槃部. 大正一切経刊行会. p. 569
- ^ 恵, 厳 (1925-06). “大般涅槃経巻三十師子吼菩薩品之六”. In 高楠順次郎. 大正新修大蔵経. 12 宝積部 下・涅槃部. 大正一切経刊行会. p. 802
- ^ 塚本, 啓祥; 磯田, 熙文 (2009-08-20). “大般涅槃経巻の三十師子吼菩薩品第二十三の六”. 大般涅槃経 (南本) III. 新国訳大蔵経. 6 涅槃部 3 (1 ed.). 大蔵出版. pp. 386-387. ISBN 978-4-8043-8047-6
- ^ 王は如来・応・正遍知、臣は方等涅槃経、盲は一切の無明の衆生、の喩え。
- ^ 森章司, ed (1987-06). 仏教比喩例話辞典. 東京堂出版. pp. 352-353
- ^ 高崎, 直道 (2014-11-14). 『涅槃経』を読む (1 ed.). 岩波書店. pp. 325-326. ISBN 978-4-00-600322-7
- ^ 高崎, 直道 (2014-11-14). 『涅槃経』を読む (1 ed.). 岩波書店. pp. 322, 331-332. ISBN 978-4-00-600322-7
- ^ 大正新脩大藏經テキストデータベース 大方廣佛華嚴經隨疏演義鈔
- ^ 国会図書館 近代デジタルライブラリー 北斎漫画 第8冊 16/35
- ^ イドリース・シャー著、『ダルヴィーシュの物語』 ISBN 0-900860-47-2 Octagon Press 1993.
- ^ Arberry, A.J. (2004年5月9日). “71-The Elephant in the dark, on the reconciliation of contrarieties”. Rumi – Tales from Masnavi. 2006年8月29日閲覧。
- ^ For an adaptation of Rumi's poem, see this song version by David Wilcox here.
- ^ The poems of John Godfrey Saxe
- ^ Gupta, Mahendranath (Sunday, 11 March 1883). “Chapter V – Vaishnavism and sectarianism – harmony of religions”. Kathamrita. Vol. II. ISBN 8188343013
- ^ Quantum theory by David Bohm, p. 26. Retrieved 2010-03-03.
- ^ Shah, Idries. “The Teaching Story: Observations on the Folklore of Our "Modern" Thought”. 2010年3月5日閲覧。
- ^ Stephenson, Neal (2008). Anathem. p. 359: HarperCollins. pp. 935. ISBN 978-0-06-147409-5
- ^ The lymph node in HIV pathogenesis by Michael M. Lederman and Leonid Margolis, Seminars in Immunology, Volume 20, Issue 3, June 2008, Pages 187-195
- ^ Blind men and elephants: What do citation summaries tell us about a research article? by Aaron Elkiss, Siwei Shen, Anthony Fader, Güneş Erkan, David States and Dragomir Radev, Journal of the American Society for Information Science and Technology, Volume 59 Issue 1, January 2008, Pages 51-62.
- ^ “Bayer Women Pills”. 2010年6月18日閲覧。
関連項目
- 還元主義([1])
- 羅生門効果 - 芥川龍之介の小説『藪の中』(黒澤明の映画『羅生門』)のように、一つの出来事に矛盾した証言が生まれること。
- 信頼できない語り手
- 早まった一般化
ジャラール・ウッディーン・ルーミー. Masnavi I Ma'navi/Book III#STORY V. The Elephant in a Dark Room.. - ウィキソース.
ジョン・ゴドフリー・サックス. The poems of John Godfrey Saxe/The Blind Men and the Elephant. - ウィキソース.
外部リンク
- Story of the Blind Men and the Elephant from www.spiritual-education.org
- All of Saxe's Poems including original printing of The Blindman and the Elephant Free to read and full text search.
- Buddhist Version as found in Jainism and Buddhism. Udana hosted by the University of Princeton
- Jalal ad-Din Muhammad Rumi's version as translated by A.J. Arberry
- Jainist Version hosted by Jainworld
- John Godfrey Saxe's version hosted at Rice University
群盲象を評す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 05:59 UTC 版)
群盲象を評すという物語において述べられた判じ物がある。この物語は様々な宗教の観点から分析されており、ジャイナ教の場合の群盲象を評すでは全ての言明を総合することが強調されている。
※この「群盲象を評す」の解説は、「スィヤードヴァーダ」の解説の一部です。
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群盲象を評す
出典:『Wiktionary』 (2021/08/12 12:23 UTC 版)
成句
- 視野の狭い者が多く集まり、銘々の観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が見失われている状態の喩え。
- 視野の狭い者は、いくら集まったところで、本質を理解することは難しいと言うこと。また、小人物はスケールの大きな人を理解することができないと言うこと。
用法
由来
仏教説話より、「阿含経」「六度集経」「北本涅槃経」「菩薩処胎経」等に見られる。以下に、「六度集経」より引用。
- 白文
- 王曰「將去以象示之」、臣奉王命、引彼瞽人將之象所、牽手示之。中有持象足者、持尾者、持尾本者、持腹者、持脅者、持背者、持耳者、持頭者、持牙者、持鼻者。瞽人於象所爭之紛紛、各謂己真彼非。使者牽還、將詣王所。王問之曰「汝曹見象乎」。對言我曹俱見。王曰「象何類乎」。持足者對言「明王象如漆筩」、持尾者言如掃帚。持尾本者言如杖。持腹者言如鼓。持脅者言如壁。持背者言言如高机。持耳者言如簸箕。持頭者言如魁。持牙者言如角。持鼻者對言「明王、象如大索」。復於王前共訟言「大王、象真如我言」。鏡面王大笑之曰「瞽乎瞽乎、爾猶不見佛經者矣」。
- 現代語訳
- 鏡面王は言った、「すぐに、象の所へ連れて行ってやれ」、家臣が王の命を受け、この盲人達を象の元に連れて行き手を引いて、盲人に示した。中には、足を触る者、尾を持つ者、尾の根本を持つ者、腹を触る者、脇腹を触る者、背を触る者、耳を触る者、頭を触る者、牙を触る者、鼻を触る者がいた。盲人達は象について、各々の見解を争い、自分は正しく他の者は間違っていると収拾がつかなくなった。家臣は王のもとに連れて帰った。王は、「お前達は象を見たことがあるか」と聞いたが、見たことはないと答えた。王は「象とはどういうものだ」と聞いた。足を触った者は「大王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた、尾を持った者は箒のよう、尾の根本を持った者は杖のよう、腹を触った者は太鼓のよう、脇腹を触った者は壁のよう、背を触った者は背の高い机のよう、耳を触った者は団扇のよう、頭を触った者は何か大きなかたまり、牙を触った者は何か角のようなもの、鼻を触った者は「大王様、象とは太い綱のようなものです」と答えた。そして、王の前で「大王様、象とは私が言っているものです」と再び言い争いを始めた。鏡面王は大いにこれを笑って言った、「盲人達よ、お前達は、まだありがたい仏様の教えに接していない者のように、理解の幅が狭いのだね」。
翻訳
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