群盗勢力の結集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:08 UTC 版)
以上の勝利により、裘甫の勢力は3万人に達した。それらを32の部隊に編成したが、それら小部隊の隊長の中で、計略に優れた人物として劉暀が知られ、武勇に長じた人物として劉慶と劉従簡が知られていた。 裘甫は天下都知兵馬使と自称し、年号を羅平と改め、新たに鋳た印璽には天平の号を用いた。そして、物資や食料を大量に集め、熟練した職人を雇って武器を作らせた。 鄭祗徳は何度も上表して朝廷に急を告げ、隣道に救援を求めた。浙西は牙将(節度使直属の牙軍の武将)凌茂貞に兵400人をつけてやり、宣歙は牙将白琮に300人をつけて派遣してきた。鄭祗徳ははじめ州城の外郭の門と東小江(現在の曹娥江)とを守らせたが、すぐにまた役所に呼び戻して身辺を護衛させた。鄭祗徳はこれらの軍隊に国家が定めた基準の13倍もの給与を行ったが、将士はそれでも不足を言った。かれらは地元の軍隊に先導を頼んで賊と戦うことになったが、諸将の中には病気と称したり、わざと落馬したりする者があり、前線に行くという者でもあらかじめ官職や勲等を要求するので、結局派遣せずじまいとなった。
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