美術コレクション・愛用品など
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「川端康成」の記事における「美術コレクション・愛用品など」の解説
川端は、古美術蒐集家として知られているが、小学校の時には画家になろうと考えたこともあり、絵に対する造詣も深い。また、自らも書を嗜み、日本棋院内にある対局部屋「幽玄の間」にある川端の筆による書『深奥幽玄』の掛軸をはじめ、いくつもの書を遺している。蒐集は古美術だけでなく、古賀春江、キスリング、石本正、梅原龍三郎、熊谷守一、無名の新人画家だった草間彌生の『雑草』『不知火』なども買い、近代絵画もコレクションしている。また、夏目漱石の五言絶句、北原白秋の自作歌、田山花袋の七絶詩、武者小路実篤の自作絵画、芥川龍之介の書簡(室生犀星宛て)、友人だった横光利一の書など、作家の直筆物も収集していた。書や絵には人格や魂がこもると考えていた川端は美術品について以下のように語っている。 美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながつてゐるやうな思ひがいたします。(中略)美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失つて来た多くのもの、現在は失はれてゐる多くのものを知るのであります。 — 川端康成「反橋」 川端の書斎の机上には、手慰みにするための小型の美術品が置かれていた。なかでも、ロダンの小品彫刻『女の手』と、平安時代後期の密教法具『金銅三鈷杵』(こんどうさんこしょ)は常に身近に置き、生涯手放すことがなかった。川端はロダンの『女の手』について、〈女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり横光君の手を思ひ出した〉と語り、横光が亡くなる何日か前の手を想起しながら、〈ひどく衰へて寝てゐた横光氏は手で思考と表現とを助けようとするかのやうであつた〉と説明している。 1958年(昭和33年)11月から翌年4月まで胆石で入院していた際には、病院から初めて外出したクリスマス・イブの日に古美術店へ行き、〈聖徳太子は日本のキリストではないか、使徒ではないか〉と言い、『聖徳太子立像(南無仏太子像、太子2歳像)』を買って病院に戻り、退院まで枕元に置いて眺めていたという。 中国磁器の汝州の『汝官窯青磁盤』を川端が手に入れた時の次のような挿話がある。この青磁盤は古美術商・繭山龍泉堂の人が月例入札で掘り出し、出品者も業者もそれとは知らずに、色が似ているところから高麗青磁だと思って普通の皿と3枚重ねていたのを安く落札したもので、繭山龍泉堂の人も汝官窯青磁の実物はむろん見たことがなく一応落札しておいたものを、川端がすぐ店で見染て安く買ったという。その後、この皿が本物の『汝官窯青磁盤』で日本には3点しかないものだと確認された。ところが川端はその後、『埴輪 乙女頭部』が欲しくなった際に金がなく、悩んだあげくに『汝官窯青磁盤』と交換してしまった。 浦上玉堂の代表作『凍雲篩雪図』は、川端が1950年(昭和25年)に広島・長崎を慰問視察した帰り、京都に立ち寄り手に入れた。それ以前に入手した与謝蕪村・池大雅の合作『十便十宜』と共に、川端入手後に国宝に指定された逸品である。浦上玉堂について川端は、〈私にはすこぶる近代的なさびしさの底に古代の静かさのかよふのが感じられて身にしみる〉として、『凍雲篩雪図』には〈凍りつくやうなさびしさがありさうですけれども、それが日本でいろいろ救はれてゐるところもありさうです〉と語っている。 愛用品の時計には、ウォルサムがあり、「リバーサイド」という懐中時計に自分の姓「川端」との縁を感じていたと言われている。カメラは戦前に購入したコンタックスを愛用し、旅先などで多くのスナップ写真を撮影している。 川端の旧蔵品 浦上玉堂『凍雲篩雪図』(川端康成記念会蔵、国宝) 『十便十宜』のうち「釣便」(池大雅筆)(川端康成記念会蔵、国宝) 雪舟『黄初平図』京都国立博物館蔵、重要文化財>
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