絶望と成功
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1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったことにショックを受けたフリーダは、サン・アンヘルの家を出てメキシコシティ中心街に居を移した。この年に発表した『ちょっとした刺し傷』はフリーダの心理状況をつぶさに反映している。 同年の終わりごろにはサン・アンヘルの家に戻ったが、フリーダはリベラへのあてつけのようにアメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持った。 1936年7月にスペインで内戦が勃発するとフリーダは共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込むようになった。 同年、ノルウェーがモスクワの外圧によって追放した革命家レフ・トロツキーの庇護をメキシコ政府に申請している。翌1937年にメキシコへ渡ってきたトロツキーと妻ナタリア・セドヴァ(英語版)を「青い家」へ迎え入れ、1939年まで住居を提供した。フリーダとトロツキーは短い間ながら関係を持ち、トロツキーの誕生日で、ロシア革命の記念日でもある11月7日に制作した『レオ・トロツキーに捧げた自画像、あるいは、カーテンのあいだ』を贈っている。この作品はトロツキーを支持していたフランスの詩人アンドレ・ブルトンの目に留まり、親交を深めるきっかけとなった。 1938年にフリーダにとって最初となる大規模な個展を海外で催すこととなった。この個展を見たバートラム・D・ヴォルフ(英語版)は、直後ヴォーグ誌に発表した論文でフリーダの作品が他のシュルレアリスムの画家の作品と異なった独自の世界観を持っていると評価している。同年ジュリアン・リーヴィ(英語版)の招待を受け、ニューヨークのジュリアン・リーヴィ・ギャラリーで再び個展を開いた。それまで自分の作品を不特定多数に見せるという経験を持たなかったフリーダはこうした評価に困惑を隠せずにいたようで、友人のルシエン・ブロッホ(英語版)に宛てた手紙の中で「人は私の作品の何を見たいのかしら」と綴っている。 1939年、映画俳優のエドワード・G・ロビンソンがフリーダの絵を大量に購入したことを契機としてアメリカへ旅立つ機会が増えていった。フリーダの成功はアメリカでも驚きを持って報道され、ニューヨーク現代美術館の館長アンソン・グッドイヤー(英語版)、ジャーナリストクレア・ブース・ルース(英語版)、写真家のニコラス・ムライなど多方面の著名人から絵の注文が舞い込むようになった。 フリーダはアンドレ・ブルトンが企画した「メキシコ展」を支援するため、1939年にパリへと旅立った。ここで複数のシュルレアリスト達と親交を結びたいと考えたことがその一因となっていたが、考え方の違いによりパリの芸術家たちと深い親交を持つことはなかった。加えて戦争の影響によって展覧会は経済的成功に至らず、その後に予定していたロンドンでの展覧会は中止になった。しかしながらフリーダの作品は好意的に評価され、ルーブル美術館は展示された『ザ・フレーム』を買い上げている。 フリーダの成功と精力的な活動によって次第に夫婦間の熱は冷めていき、1939年11月6日リベラとの離婚が成立、フリーダは生家である「青い家」へと戻った。 孤独を忘れようとフリーダは作品制作に没頭し、経済的にも自立しようと努めた。1940年9月、再び脊椎の痛みに悩まされ始め、加えて右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、作品制作が続けられなくなり、治療のためサンフランシスコへと向かった。 医師の指導のもと治療を続け、健康状態が安定した頃、フリーダはリベラへ再婚の提案を行った。経済的に自立させること、性的関係は結ばないことなどフリーダが提示したいくつかの条件を飲み、リベラは提案に合意し、1940年12月8日、サンフランシスコで二人は2度目の結婚をした。サン・アンヘルはアトリエとして使用することとなり、二人は「青い家」で生活を行うこととなった。 1940年代に入ると、メキシコ内においてもフリーダの名は知られるようになり、様々な賞を受賞し、複数の委員会委員に選出され、講師の委嘱や雑誌の寄稿などを求められるようになった。 1942年には文部省が支援したメキシコ文化センターの会員に選出され、メキシコ文化の振興と普及を目的とした展示会の企画や講演、出版物の発行などに広く携わった。また同年、文部省の管轄下にあった絵画と造形の専門学校「ラ・エスメラルダ」の教員にも選ばれ、週12時間の授業を受け持つことになった。 フリーダの型破りな講義は好評を博したが、数か月後には健康上の問題から学校へ通うことが困難となり、自宅での講義に切り替わった。フリーダは受講していた生徒たちの中から才能ある若人を得、油絵の指導や作品展示機会の獲得に尽力した。 1940年代後半にはカタルーニャ人画家のジュゼップ・バルトリが恋人であり、2015年にはカーロとバルトリがやり取りした手紙や詩のコレクションが13万7000ドルで落札されている。
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