第7編の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)
国家の強弱は一に国法の如何に依るものである。諸王諸公が死んで国家の滅亡する理由は、官吏が国家を治めるのではなくて、却って国家を乱すからである。国法を等閑に附して、我が儘を行うからである。官吏の私曲を去り、国法を確保したならば、人民の安寧を保ち、国家は平和である。官吏の私行を去って国法を公明に施行したならば、士気も上がり、敵を圧倒することもできる。政治の得失を明らかにし、法制の頭脳ある者を政府の首班に置けば、政績を晦ますこともできない。情勢に通じ、機宜を誤らぬ者を外交の衝に当たらせれば、天下の形勢を誤ることも無い。今もし衆評を以て人間を抜擢すれば、臣下は上を離れて私党を作り、巧に輿論を構成する。党派の中から官吏を任用すれば、党勢の拡張に走って、国法を無視する。こうなれば少数の正義派は多数の反対派のために圧倒せられ、群下は挙って権力家の下に集まり、君主を忘れ、如何に政府に官僚が揃っても、国家のために存するのではなくて、私人のために動くに過ぎなくなる。君主は即ち食客同様である。これを称して亡国の廷には人無しという。政府に百官の備わらぬ意味ではない。国家の官吏が無いことをいう。官吏が私の利益を謀って国家の為を思わず、大臣相互に庇護して君主を無視し、屬僚党派に走って官吏の職責を尽くさぬその原因は主として君主が国法を重んぜず、臣下の自由裁量のままに放任して置くところに伏在するのである。明主は法を重んじ、万事国法に照らして処断せねばならぬ。官吏を任用するにも自由採用を行わずして、必ず法定の資格あるものを採る。賞罰も政績の如何に依り法に随って信賞必罰する。しからば官吏は皆法の前に赤裸々な姿を現ずるのである。君主はただその法の運用を司れば好い。百般の行政を親裁専行せんとするは国政紊乱の原因である。 国家紊乱のもと大官の腐敗、官民の謬想、学者の迂論。智術の士は識見が遠大で洞察力に富む。能法の士は必ず硬骨で権威に怖れない。飽く迄も真直である。重人というべきものがあって、君主の命令も無いのに勝手な政法を行い、国法を破って私利を貪り、国力を消耗して自家の腹を肥やし、巧に君主を操縦して行く。智術の士が挙用されては、彼は洞察力に富むがゆえに自己の暗い所を照らす愁いがある。能法の士が任用されては、硬骨なる彼は自己の姦曲をそのままに看過せぬ怖れがある。そこで重人と智術能法の士とは如何しても相容れぬ仇敵である。しかるに重人には4つの援助がある。国外に於ける名声、官吏の阿附、君主の近臣の庇護、学者の昵近である。ところが智術能法の人材には5つの不利がある。上に疎遠なる身を以て親近者に対抗せねばならぬこと、新参の身で故旧に対抗せねばならぬこと、苦言を以て甘言に対抗せねばならぬこと、低い身分を以て権力者と対抗せねばならぬこと、少数を以て多数に対抗せねばならぬこと。そこでこの分でゆけば君主と人材とは益々離間されて、結局国家は滅亡より他にない。世間の謬想も秩序を紊す。人民には役にも立たぬ悪い人間と、有用で善良な人間との2種類がある。世間はその善良有用な人間を軽んじて、無用有害な人間を尊敬する。学者の愚論は最も事を誤り易い。現今の時代に堯舜禹湯文武の道を実現しようと言うのは常に新聖嘲笑の的といわねばならぬ。ゆえに聖人は太古を頼まず、旧慣を墨守せず、時勢の変遷に応じて適宜な処置を採るものである。 利害観念は人間に根本的なものである。まして親子以外の関係の者に利を言うなと教えるのはあまりに人性を解せざる説である。また国家は愛や仁義で現実に治まるものではない。仁義や雄弁は国家を維持するに足りない。古と今とは時勢を異にする。随って政策も同一ではいけない。間緩い政策で切羽詰まった時代の民を治めてゆこうとするのは、轡も鞭も無しで駻馬を御そうとすると同じ無知である。且つ民は固より権力に服従するもので、義に懐く者は少ない。民は固より権力に附き、権力は最も容易に人を服従させることができる。民は愛には増長するが、威力には服従するものである。明主はこの理を知って、故ら恩愛の心を養わずして権力を加えんとする。しからずんば天下は治まらない。即ち君主は慕われるより、畏れられねばならぬ。 学者はまた言う法を軽くせよと。しかしそれは畢竟国政の紊乱に帰する。国家に何がゆえに恩賞と刑罰とがあるのか。要するに国家に取って望ましきことを助長し、国家に取りて排斥すべき事を禁ずるためである。賞厚ければ助長の効も速く、罰重ければ禁止の数も著しい。元来利を望む者は当然害を悪む。利と害とは両立することのできないものである。治と乱との関係もこれと異ならない。治を欲する者は必ず乱を悪む。しかるに今刑を軽くせよと言うは、乱をそれほど悪むなと言うに異ならない。明主の法は社会生活の準拠を明示するのである。要はその犯罪者を刑に処することに依って、一層痛切に社会を覚醒することにある。即ち刑罰は社会防衛のための手段である。功を賞することも同様の理に依って類推される。ゆえに社会生活を十全にせんと思えば思うほど、刑罰は益々厳重なるべきである。しからずして徒に刑を軽くせよというは刑罰の目的を解せざる愚論である。明王の政治は、時期に応じそれぞれ租税を徴収して貧富の懸隔を緩和し、爵禄を厚くして人材を洩らさず、刑罰を重くして社会の罪悪を除き、人民に自己の労力を以て富を作り、自己の成績で地位を高め、苟も他の慈悲恩恵を希望するような弱者たらしめざることを目的とするものである。 君主は対象たる臣下を赤裸々に活かすことによって自ら全うすることができる。愛や憎しみやその外様々な感情意欲を以て臣下に対せずに、虚明な正智の眼を開いて、黙してその対象を観る(betrachtenの意)ことである。君主は第一に臣下の真相を把握して、自己を動かす如く彼等を動かさねばならない。臣僚には二つの責任がある。「言の責任」と「不言の責任」とである。言の責任とは主義と実績とが一致せねばならぬことを云う。不言の責任とは主張すべきことを主張せざることの責である。臣僚が主張すべきことを主張せざるときはこれを罰すべく、また主張が実績に過ぐるときもまた罰せねばならぬ。主張と実績と一致して始めて褒賞に値する。人主の患は人を信ずるに在る。人を信ずれば、即ちその人に制せられるのである。非常に深くその子を信じてもいけない。その妻を大いに信じてもいけない。しかしながら人主の患はまた人を信ぜざるにもある。要するに私心を動かすことが君主の禁物である。君主はいわゆる「寂乎としてそれ位なくして處り、漻乎としてその所を得る能わざる」ようでなければならない。
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