第5の哨戒 1944年5月 - 7月
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「ハーダー (SS-257)」の記事における「第5の哨戒 1944年5月 - 7月」の解説
5月26日、ハーダーは5回目の哨戒で、レッドフィン (USS Redfin, SS-272) とともにセレベス海方面に向かった。この哨戒は、ハーダーの艦歴のうちでも最も輝かしいものとなった。 6月6日夜、ハーダーは北緯04度05分 東経119度30分 / 北緯4.083度 東経119.500度 / 4.083; 119.500のタウィタウィとボルネオ島に挟まれセレベス海とスールー海を結ぶシブツ海峡で、特設運送船(給油)興川丸(川崎汽船、10,043トン)を護衛する駆逐艦若月および水無月をレーダーで探知する。ハーダーは浮上したまま15ノットで航行中の船団を追跡したが、月明かりによってハーダーの存在が相手に知れてしまった。水無月がハーダーを撃沈すべく艦首を向けてきたため、ハーダーは潜航して水無月に艦首を向け、水無月が1,000メートルにまで接近してきた時に魚雷3本を発射し、うち2本が水無月の艦首と艦橋直下に命中して水無月は5分以内に沈んでいった。ハーダーは第二撃として若月に対し魚雷を6本発射したが命中しなかった。 6月7日早朝、ハーダーは北緯04度43分 東経120度03分 / 北緯4.717度 東経120.050度 / 4.717; 120.050のタウィタウィ沖で日本の飛行機を発見して潜航した。程なく、この日の対潜掃討に従事していた駆逐艦早波に出くわす。早波はハーダーの潜望鏡を発見し全速力で突撃していった。ハーダーは600メートルという至近距離まで早波を引きつけ、早波の真正面から魚雷3本を発射。うち2本が早波の中央部に命中して11時43分に早波を轟沈させた。この轟沈劇は、ハーダーが早波を発見してからわずか10分弱の出来事であり、早波乗員は士官は1人を除いて全員戦死、その他も44名しか生き残らなかった。ハーダーは徹底していない爆雷攻撃を受けたが、何も起こらなかった。ハーダーは夕刻浮上し、シブツ海峡を経由してボルネオ島の北東沖に向かった。翌6月8日夜、ハーダーはボルネオ島の一角、北緯05度25分 東経119度02分 / 北緯5.417度 東経119.033度 / 5.417; 119.033の地点で、諜報活動を行っていたイギリス人6名と連絡を取ることに成功し、フリーマントル出撃時から同乗していたオーストラリア軍のW・J・ジンキンス中佐を上陸させる。 6月9日夕刻、ハーダーは北緯05度42分 東経120度41分 / 北緯5.700度 東経120.683度 / 5.700; 120.683のタウィタウィ沖でジグザグ航行中の2隻の駆逐艦がいることを確認した。ハーダーはレーダーが操作できる深度に潜航し、戦闘配置を令した。この時、対潜掃討のため駆逐艦磯風、島風、早霜と谷風が出動していた。このうち、最も近くにいた谷風がターゲットとして選定され、ハーダーはじっと観測を続けた。谷風は通常のジグザグ航行を行っていると判断され、潜望鏡深度に深度を変えた。やがて、ハーダーと谷風はT字型で交わるような態勢となり、ハーダーは900メートルの距離から魚雷を4本発射した。最初の魚雷は谷風の前を通過していったが、2番目と3番目の魚雷が谷風の艦首と艦橋真下に命中し、4本目は逸れていった。2本の魚雷が命中した谷風は、22時25分にすさまじい爆発を起こしながら轟沈した。ハーダーは2隻目の駆逐艦を攻撃すべく準備したが、逸れた4本目の魚雷が命中するかも知れないと判断され、攻撃は控えられた。沈み行く谷風から起こる爆発は水中にいたハーダーをも揺るがせ、潜望鏡の視界いっぱいに目もくらむような爆発による閃光が見え、谷風は完全に姿を消した。ハーダーはしばらくしてから浮上し、周囲を探索したが、夜のためか谷風の残骸物らしきものは見つからなかった。お約束の爆雷攻撃があった後、ハーダーはタウィタウィの南側に移動するが、6月10日未明に件のジンキンス中佐とイギリス人6名を収容することは忘れなかった。 6月10日夕刻、ハーダーは北緯04度33分 東経120度07分 / 北緯4.550度 東経120.117度 / 4.550; 120.117のタウィタウィ南方でビアク島救援の第三次渾作戦に参加すべくタウィタウィを出撃してきた戦艦大和、武蔵以下の艦隊を発見、追跡した。ハーダーは大和、武蔵の左舷側に位置し、潜望鏡で観測していた。その時、武蔵の高角砲が数発潜望鏡めがけて発射され、また駆逐艦沖波が35ノットの高速で突進してきた。ハーダーは沖波が約1,200メートルになるまで引き寄せ、沖波の真正面から魚雷を3本発射し、爆発音を聴取して撃沈と判定したものの実際はかわされており、逆にハーダーは2時間にわたって爆雷攻撃を受けた。ハーダーは深深度まで潜航したが小さなダメージを受けた。ハーダーは深夜に浮上して艦隊発見を司令部に打電した後、ライトブイを発見。駆逐艦に打撃を与えたと判断された。6月21日に魚雷を補給すべく一度ダーウィンに立ち寄り、フロレス海方面で哨戒を実施した。7月3日、ハーダーは45日間の行動を終えてダーウィンに帰投した。 この5回目の哨戒におけるハーダーの活躍ぶりは、マリアナ諸島方面の戦局に関する日本海軍の判断に大きな狂いを生じさせた。すなわち、ハーダーによる駆逐艦の連続撃沈と周辺での頻繁なアメリカ側の交信により、タウィタウィが複数の潜水艦により包囲されていると信じきった連合艦隊司令長官豊田副武大将は、小沢治三郎中将の第一機動艦隊を予定より早くタウィタウィから立ち去らせる判断を下した。予定を大幅に狂わされた小沢中将は、搭乗員の鍛錬も十分にできないままマリアナ諸島方面に進撃し、6月19日のマリアナ沖海戦を迎えることとなった。
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