第5の哨戒 1944年9月
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「クレヴァル (潜水艦)」の記事における「第5の哨戒 1944年9月」の解説
9月1日、クレヴァルは5回目の哨戒でジャワ海およびフィリピン方面に向かった。9月10日、クレヴァルは潜航哨戒の後に普通に浮上した。ところが、艦橋の見張り台へ配置に就くため、見張り担当のビル・フィッツェンに続いてハワード・ジェームス・ブラインド中尉がハッチを開けた直後、ハッチが開いたままのクレヴァルの艦体は突然急角度で海中に突っ込み始め、見張り台にいたフィッツェンを海中に放り出した。開いたハッチから入り込む海水を抑えることができず、深度が50メートルあたりになったところでようやくハッチを閉めることができた。しかし排水の方はできず、42度の角度をつけて60メートルの深度に潜ったままとなった。機関担当のロバート・T・イェーガーの元で修復作業が行われたが、制御室や司令塔に浸水しており、また全ての電装品が海水漬けになってダメになってしまった。イェーガーは一連の行為で艦の危機を救ったことで、シルバースターを授与された。浮上後、ブラインドが戦死したことが分かった。恐らく、フィッツェンが放り出された後にブラインドは急速に沈下するクレヴァルのハッチを外から閉じようと努力し、結果的に自分の命と引き換えにクレヴァルを救ったのだろうということで結論付けられた。レンセラー工科大学の卒業生で、2週間前にオーストラリアの女性と結婚したばかりのブラインドは、この行為によって海軍十字章を受章した。クレヴァルは哨戒を打ち切って引き返すこととなった。9月22日、クレヴァルは20日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。その後、修理のため10月22日にフリーマントルを出港し、11月6日に真珠湾に到着。次いで11月11日に真珠湾を出港して西海岸のメア・アイランド海軍造船所に回航され、11月18日に到着した。ウォーカー艦長は事故の責任については問われなかったものの、艦長を任を辞した。12月23日、後任の艦長にエヴェット・H・シュタインメッツ(アナポリス1935年組)が着任した。修理が終わったクレヴァルは1945年2月14日に出港し、2月21日に真珠湾に到着した。
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