アーチャーフィッシュ艦長と信濃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:38 UTC 版)
「ジョゼフ・F・エンライト」の記事における「アーチャーフィッシュ艦長と信濃」の解説
「信濃 (空母)」および「アーチャーフィッシュ (潜水艦)#第5の哨戒 1944年10月 - 12月・信濃撃沈」も参照 1944年9月、エンライトはアーチャーフィッシュの3代目艦長に就任する。アーチャーフィッシュは10月30日に5回目の哨戒で真珠湾を出撃し、11月9日にサイパン島に寄港して補給と整備を行う。サイパン島出港後、哨戒期間の前半はB-29への支援活動に充てられた。11月28日夜、アーチャーフィッシュはレーダーと目視により複数の目標を発見、これこそが信濃であった。エンライト自身も信濃と、護衛の駆逐艦雪風、磯風、浜風を確認する。アーチャーフィッシュと信濃との間は一旦は遠ざかるが、11月29日3時ごろになってジグザグ航行を行っていた信濃がアーチャーフィッシュのいる方に向かってきた。3時18分、アーチャーフィッシュは魚雷を6本発射し、4本が信濃に命中した。信濃は約7時間後に沈没し、「潜水艦によって撃沈された、第二次世界大戦、あるいは歴史上もっとも大きな艦船」となった。もっとも、アメリカ軍は信濃撃沈自体は無電傍受で察知していたが、信濃川に由来する名前の巡洋艦改造空母と思い込んでいたので、報告でのすったもんだの末に当初は「28,000トンの空母」1隻撃沈として認定された。アメリカ軍が信濃の正体を知ったのは1946年になってからのことで、エンライトはジェームズ・フォレスタル海軍長官から海軍十字章を、ハリー・S・トルーマン大統領から部隊感状を授与された。 この後、アーチャーフィッシュは哨戒を2回行ったが戦果はなく、エンライトの公認撃沈スコアは信濃ただ1隻となった。
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