第4回全世界選手権
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1987年(昭和62年)は、オープントーナメント全日本空手道選手権大会は開催されず、第4回オープントーナメント全世界空手道選手権大会と兼務扱いになっていた。 増田は表向き「ライバルはいない」と公言したが、その一方で松井章圭の対戦相手の情報収集、特に弱点探しの上手さに感心していた。松井の合わせ技は、カウンターに類似していて、特に相手がフェイントもなく普通に構えた後ろ足(奥足)の手の正拳突き、奥足からの上中下段蹴り、大技(後ろ回し蹴り・後ろ蹴り・かかと落としなど)を出してきたときに、小さい攻撃(構えたときの前足で軸足を刈るように蹴ったり、押すような前蹴り、前足と同じ側の手で順突きなど)で相手の攻撃が自分に届く前に当てるもので、ボクシングのカウンターほど、KOを意識したものではなく、バランスを崩すのを目的とした技である。増田は松井が使用する下段回し蹴り対策に、蹴り足の膝で相手の合わせ下段回し蹴りを押さえるようにして蹴る事を身につけていた。さらに前傾気味に体重をかけ、相手に倒されないように蹴ることも考え、会得していた。松井を意識したトレーニングと練習は、体の硬い増田を上段回し蹴りの使い手に変え、松井の得意技であった合わせ下段回し蹴りをも、増田の得意技とした。後年、増田は松井をはじめとした強豪と戦うことで相手の良さを吸収していた事が自分をいかに成長させたか、そのような存在こそ『ライバル』という事を認め、今では彼らに感謝しているという。 同年11月全世界選手権が開催され、4回戦にジェラルド・ゴルドーと対戦。ゴルドーは身長196センチメートルの巨漢でオランダではミッシェル・ウェーデルに次ぐ実力者であった。全世界選手権での入賞経験はないが、間違いなく上位入賞できる実力を持っていると増田はみていた。ゴルドーとの対戦は延長2回で、増田が勝利を得たが大変な試合であった。ウェーデル同様ゴルドーも突きの威力が日本人とは比較にならないほど強烈で特に左の突きは強かった。しかも懐が深く攻撃を当てづらい。ゴルドーはウェーデルと違い、若干間合いをとるような戦い方をした。増田は相手の間合いで戦えば不利だと考え、序盤から積極的に攻めた。速攻により本戦で決めてしまおうと思っていた。早く決着をつけたい増田のあせりは、ゴルドーとの戦いを力と力のぶつかり合いともいえるラフファイトにした。ゴルドーには、ウェーデルと増田の試合が脳裏に合ったに違いない。増田は彼が自分の力をかなり警戒していたので、それが自分に有利に働いたと思っていた。その一方で増田は自分が無名の選手でゴルドーの全盛期にヨーロッパで対戦したら、自分が勝てたかどうかどうかわからないとも思っていた。選手権大会後、ゴルドーは増田に敬意を抱いた。ゴルドーは後に極真会館を離れ、キックボクシングの選手を育成するようになっていたが、教え子を連れて来日した時には必ず増田の所に訪問してくれた。増田にとってウェーデル同様、対戦相手が自分の所にやってきてくれるのは彼にとって、とてもうれしい事だった。 続く5回戦ではアンゴラ代表のジェフリー・セベクルと対戦した。セベクルは変則的な蹴りを使った。普通に蹴ってくるかと思うとその蹴りが寸前で止まり、フェイントが入り、タイミングを外して蹴りを出していた。セベクルは自分の蹴りを相手の頭部寸前で、自分の手を使って押さえていたのだ。そこからタイミングを見計らってその手を外して蹴ってくるのである。実にユニークな戦法だが、事前に情報収集をしていた増田は合わせ下段回し蹴りを使うなど、相手の蹴りを一発も貰わず、本戦で増田が勝利した。準々決勝では七戸康博と延長2回の末、体重と試割り共に増田が上回っていたので、増田が準決勝に上がった。 準決勝では優勝候補の一人であったブラジルのアデミール・ダ・コスタを破ったアンディ・フグとの対戦。アンディはそれまであまり効果的な技でないと思われていたかかと落としを革新的に実用化し、破竹の勢いで勝ちあがってきた。前回の全世界選手権でウェーデルと激闘を経験した事から、アンディを軽く見ていた増田は、その考えが大変な後悔を生む事になったと吐露している。本戦ではラッシュ攻撃で場外に出し、勝ったと思われたが引き分けにされてしまう。テレビ解説をしていた盧山初雄は「今大会はよほどの差がない限り、判定は引き分けにされてしまう。大山総裁が『ホームタウンデシジョンをなくし、外国人にも平等にする事』と訓示した事が、それまでの全日本選手権とは違った判定基準になってしまっている」という状況の為、一本か技ありを取らない限り、対外国人選手との対戦が判定で勝つ事が困難になっていた。 他の日本選手でも体重判定や試割りで上回っていても再度延長戦をやらされ、負けてしまった橋爪秀彦もいた。延長戦に入り、アンディに左上段回し蹴りをヒットさせたが、初日の闘いで左足を肉離れを起こしていたので、効かせ方が甘かった。アンディはフットワークを使い、踵落しと下段回し蹴りのコンビネーションを使いこなしていたが、上段の防御は甘かった。1回目の延長はヨーロッパの審判はアンディに旗を上げ、日本人審判1名は増田に上げていたが主審は引き分けして、結局延長戦は3回行われ、軍配はアンディに上がった(詳細は#逸話の「判定で見放され続けた増田」を参照)。盧山の指摘どおり、判定基準が変わってしまった事、増田自身もそれまではフットワークで下がる闘いは判定で不利になっていたがこの時は違っていたと言っている。その後、3位決定戦でマイケル・トンプソンと対戦し、下段回し蹴りで合わせ一本勝ちをして、3位入賞で終えた。
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