第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月とは? わかりやすく解説

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第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/09 16:46 UTC 版)

パンパニト (潜水艦)」の記事における「第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月」の解説

10月28日、パンパニトは4回目の哨戒でシーキャット (USS Sea Cat, SS-399) 、パイプフィッシュ (USS Pipefish, SS-388) 、シーレイヴン (USS Searaven, SS-196) とウルフパック構成し南シナ海向かった11月19日、パンパニトは特設給糧船第十播州丸(西大漁業統制459トン)とShinko Maru No.1不詳、1,200トン)を撃沈した12月3日には、北緯0631分 東経10612分 / 北緯6.517度 東経106.200度 / 6.517; 106.200の地点南下してくるヒ83船団迎え撃ちタンカー誠心丸(日本油槽船、5,239トン)の船尾魚雷命中させ航行不能に陥らせた。12月30日、パンパニトは59日間行動終えてフリーマントル帰投サマーズがパンパニト艦長復帰した1945年1月23日、パンパニトは5回目哨戒でガヴィナ (USS Guavina, SS-362) と共に南シナ海およびタイランド湾向かった2月6日深夜、パンパニトは北緯0631分 東経10612分 / 北緯6.517度 東経106.200度 / 6.517; 106.200のホーチミン市南方470キロ地点で、南号作戦参加のヒ88D船団発見し攻撃延元丸(日本郵船、6,890トン)の右舷機関室魚雷1本を命中させ撃沈した2月8日には北緯0705東経10450分 / 北緯7.083度 東経104.833度 / 7.083; 104.833の地点永福丸(日本郵船、3,520トン)を撃沈した2月12日、パンパニトは20日間の行動終えてスービック湾帰投した。 2月25日、パンパニトは6回目哨戒カイマン (USS Caiman, SS-323) 、シーライオンミンゴ (USS Mingo, SS-261) とウルフパック組んでタイランド湾向かった。しかし、パンパニトはこの哨戒戦果挙げることはなく、敵艦を1隻だけ確認したとどまった4月24日、パンパニトは57日間行動終えて真珠湾帰投オーバーホールのため真珠湾出航してサンフランシスコ回航された。作業完了する8月1日真珠湾向かった

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第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/24 20:32 UTC 版)

バッショー (潜水艦)」の記事における「第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月」の解説

10月27日、バッショーは4回目の哨戒フラウンダー、ガヴィナ (USS Guavina, SS-362) とウルフパック構成し南シナ海向かった11月21日、バッショーは北緯10度21東経11456分 / 北緯10.350度 東経114.933度 / 10.350; 114.933の太平島近海輸送船団発見し魚雷を4本発射して1本が5,000トン輸送船命中して輸送船撃破報じた。この輸送船暁山丸(拿捕船、5,698トン)とされ、フラウンダー雷撃受けて損傷していた。11月26日になってガヴィナが止め刺し暁山丸は沈没当初はバッショーとフラウンダーとの共同戦果となっていたが、最終的にフラウンダーとガヴィナの共同戦果として公認された。12月14日朝、バッショーとガヴィナは北緯10度48東経110度17分 / 北緯10.800度 東経110.283度 / 10.800; 110.283のカムラン湾近海艦隊発見する。これはリンガ泊地からカムラン湾進出してきた第五艦隊志摩清英中将)で、志摩中将旗艦である重巡洋艦足柄第四航空戦隊松田千秋少将)の航空戦艦伊勢日向軽巡洋艦大淀、それに駆逐艦2隻の計6隻で構成されていた。バッショーは戦艦を「長門型戦艦」と判断し、やろうと思えば艦隊接近して痛打与えることもできたが目標速力早くとりあえ艦隊発見報告をしてから攻撃してもよいと考え、しばらく後に浮上してから艦隊発見司令部打電したこの頃バーゴール (USS Bergall, SS-320) が重巡洋艦妙高撃破したものの、その妙高反撃され大破したため近在潜水艦バーゴール救援命じられ、バッショーも命令受信した会合できなかった。12月31日、バッショーは63日間行動終えてフリーマントル帰投艦長ホーク・S・シンプソン少佐アナポリス卒業年次不明)に代わった。 1945年1月25日、バッショーは5回目哨戒フラッシャー (USS Flasher, SS-249) とともに南シナ海向かった2月13日午後、バッショーは北緯1640東経11140分 / 北緯16.667度 東経111.667度 / 16.667; 111.667の地点悪天候の中動く目標探知した。この時、前回哨戒見た伊勢日向大淀駆逐艦構成された完部隊北号作戦で貴重物資を満載し日本目指し航行中であり、バッショーが探知したのは、その伊勢以下の完部隊に他ならなかった。この時までにイギリス潜水艦タンタルス(英語版) (HMS Tantalus, P318) を含む13隻もの潜水艦やB-24の攻撃偵察かいくぐって来た完部隊前に最後に刺客として現れたのがバッショーとフラッシャーであった。しかし、バッショーは不意を打たれた。16時18分、日向22キロ先のバッショーを探知して主砲攻撃してきたのである一種威嚇射撃だったが、日向36センチ砲弾はバッショーの右舷後方至近弾として落下、バッショーは潜航し避退した。しばらくして浮上し部隊追跡移ったものの後の祭りであり、完部隊はすでに去った後だった。2月21日夜に北緯2024東経11133分 / 北緯20.400度 東経111.550度 / 20.400; 111.550の地点フラッシャーとともに複数目標発見し魚雷を4本発射して250トン小型船に1本命中させて撃沈、同じ位置150トン小型船砲撃撃沈した2月25日午後に北緯2038東経11149分 / 北緯20.633度 東経111.817度 / 20.633; 111.817の地点小型輸送船と「千鳥型水雷艇」を発見し最初の攻撃魚雷を4本発射した命中せず夜に入って再度魚雷を4本発射したが、これも命中しなかった。2月27日には北緯1925東経11121分 / 北緯19.417度 東経111.350度 / 19.417; 111.350の地点で2隻の70トン海上トラック立て続け砲撃し、2隻とも撃沈した。翌2月28日にも北緯2001東経11125分 / 北緯20.017度 東経111.417度 / 20.017; 111.417の地点250トン級と150トン級の海上トラック発見して砲撃するが、損傷に留まった。3月5日、バッショーはインドシナ半島ツーラン湾沖で南号作戦のヒ98船団発見する。ヒ98船団は、ぱれんばん丸(三菱汽船、5,236トン)と良栄丸日東汽船10,017トン)の2隻のタンカー海防艦構成されていたが、ぱれんばん丸は前日3月4日バヤ (USS Baya, SS-318) の攻撃により撃沈されており、残った良栄丸海防艦とともにダナン退避し3月5日の朝にダナン出港して三亜向かっていたものであった折から濃霧の中、バッショーはヒ98船団接近して北緯1647東経10841分 / 北緯16.783度 東経108.683度 / 16.783; 108.683の地点魚雷を6本発射し、うち2本が良栄丸命中して良栄丸船首一部海上突き出したまま沈没した良栄丸撃沈日本燃料事情はより絶望的に厳しくなる結果となった攻撃後、バッショーは海防艦によって長く制圧され夜に入って魚雷を2本発射し命中こそしなかったがようやく逃げ切ることができた。3月6日には北緯1618東経10832分 / 北緯16.300度 東経108.533度 / 16.300; 108.533のダナン近海で2隻の海上トラック発見し、うち250トン海上トラック砲撃仕留めた3月12日、バッショーは47日間行動終えてスービック湾帰投した。 3月27日、バッショーは6回目哨戒南シナ海向かった。しかし、この哨戒では3月30日未明北緯13度36東経10947分 / 北緯13.600度 東経109.783度 / 13.600; 109.783の地点病院船を、午後に北緯13度38東経10923分 / 北緯13.633度 東経109.383度 / 13.633; 109.383の地点病院船高砂丸大阪商船、9,347トン)を発見し4月9日にも北緯13度39東経10929分 / 北緯13.650度 東経109.483度 / 13.650; 109.483の地点別の病院船見ただけで、獲物にはありつけなかった。4月29日、バッショーは33日間行動終えてスービック湾帰投続いてオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所へ向かう。作業8月13日完了し真珠湾に向かう。その途中で終戦知らせを受け、バッショーはメア・アイランドへの帰還命じられた。

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