第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月
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「パンパニト (潜水艦)」の記事における「第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月」の解説
10月28日、パンパニトは4回目の哨戒でシーキャット (USS Sea Cat, SS-399) 、パイプフィッシュ (USS Pipefish, SS-388) 、シーレイヴン (USS Searaven, SS-196) とウルフパックを構成し南シナ海に向かった。11月19日、パンパニトは特設給糧船第十七播州丸(西大洋漁業統制、459トン)とShinko Maru No.1(不詳、1,200トン)を撃沈した。12月3日には、北緯06度31分 東経106度12分 / 北緯6.517度 東経106.200度 / 6.517; 106.200の地点で南下してくるヒ83船団を迎え撃ち、タンカー誠心丸(日本油槽船、5,239トン)の船尾に魚雷を命中させ航行不能に陥らせた。12月30日、パンパニトは59日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。サマーズがパンパニト艦長に復帰した。 1945年1月23日、パンパニトは5回目の哨戒でガヴィナ (USS Guavina, SS-362) と共に南シナ海およびタイランド湾に向かった。2月6日深夜、パンパニトは北緯06度31分 東経106度12分 / 北緯6.517度 東経106.200度 / 6.517; 106.200のホーチミン市南方470キロ地点で、南号作戦参加のヒ88D船団を発見し攻撃。延元丸(日本郵船、6,890トン)の右舷機関室に魚雷1本を命中させ撃沈した。2月8日には北緯07度05分 東経104度50分 / 北緯7.083度 東経104.833度 / 7.083; 104.833の地点で永福丸(日本郵船、3,520トン)を撃沈した。2月12日、パンパニトは20日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。 2月25日、パンパニトは6回目の哨戒でカイマン (USS Caiman, SS-323) 、シーライオン、ミンゴ (USS Mingo, SS-261) とウルフパックを組んでタイランド湾に向かった。しかし、パンパニトはこの哨戒で戦果を挙げることはなく、敵艦を1隻だけ確認したにとどまった。4月24日、パンパニトは57日間の行動を終えて真珠湾に帰投。オーバーホールのため真珠湾を出航してサンフランシスコに回航された。作業が完了すると8月1日に真珠湾に向かった。
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第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月
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「バッショー (潜水艦)」の記事における「第4、第5、第6の哨戒 1944年10月 - 1945年4月」の解説
10月27日、バッショーは4回目の哨戒でフラウンダー、ガヴィナ (USS Guavina, SS-362) とウルフパックを構成し南シナ海に向かった。11月21日、バッショーは北緯10度21分 東経114度56分 / 北緯10.350度 東経114.933度 / 10.350; 114.933の太平島近海で輸送船団を発見し、魚雷を4本発射して1本が5,000トン級輸送船に命中して、輸送船の撃破を報じた。この輸送船は暁山丸(拿捕船、5,698トン)とされ、フラウンダーの雷撃を受けて損傷していた。11月26日になってガヴィナが止めを刺し、暁山丸は沈没。当初はバッショーとフラウンダーとの共同戦果となっていたが、最終的にはフラウンダーとガヴィナの共同戦果として公認された。12月14日朝、バッショーとガヴィナは北緯10度48分 東経110度17分 / 北緯10.800度 東経110.283度 / 10.800; 110.283のカムラン湾近海で艦隊を発見する。これはリンガ泊地からカムラン湾に進出してきた第五艦隊(志摩清英中将)で、志摩中将の旗艦である重巡洋艦足柄、第四航空戦隊(松田千秋少将)の航空戦艦伊勢と日向、軽巡洋艦大淀、それに駆逐艦2隻の計6隻で構成されていた。バッショーは戦艦を「長門型戦艦」と判断し、やろうと思えば艦隊に接近して痛打を与えることもできたが目標の速力は早く、とりあえず艦隊発見の報告をしてから攻撃してもよいと考え、しばらく後に浮上してから艦隊発見を司令部に打電した。この頃、バーゴール (USS Bergall, SS-320) が重巡洋艦妙高を撃破したものの、その妙高に反撃され大破したため近在の潜水艦にバーゴールの救援が命じられ、バッショーも命令を受信したが会合できなかった。12月31日、バッショーは63日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がホーク・S・シンプソン少佐(アナポリス卒業年次不明)に代わった。 1945年1月25日、バッショーは5回目の哨戒でフラッシャー (USS Flasher, SS-249) とともに南シナ海に向かった。2月13日午後、バッショーは北緯16度40分 東経111度40分 / 北緯16.667度 東経111.667度 / 16.667; 111.667の地点で悪天候の中動く目標を探知した。この時、前回の哨戒で見た伊勢、日向、大淀と駆逐艦で構成された完部隊が北号作戦で貴重物資を満載し日本を目指して航行中であり、バッショーが探知したのは、その伊勢以下の完部隊に他ならなかった。この時までにイギリス潜水艦タンタルス(英語版) (HMS Tantalus, P318) を含む13隻もの潜水艦やB-24の攻撃や偵察をかいくぐって来た完部隊の前に、最後に刺客として現れたのがバッショーとフラッシャーであった。しかし、バッショーは不意を打たれた。16時18分、日向が22キロ先のバッショーを探知して主砲で攻撃してきたのである。一種の威嚇射撃だったが、日向の36センチ砲弾はバッショーの右舷後方に至近弾として落下、バッショーは潜航して避退した。しばらくして浮上し完部隊追跡に移ったものの後の祭りであり、完部隊はすでに去った後だった。2月21日夜には北緯20度24分 東経111度33分 / 北緯20.400度 東経111.550度 / 20.400; 111.550の地点でフラッシャーとともに複数の目標を発見し、魚雷を4本発射して250トン級小型船に1本命中させて撃沈、同じ位置で150トン級小型船を砲撃で撃沈した。2月25日午後には北緯20度38分 東経111度49分 / 北緯20.633度 東経111.817度 / 20.633; 111.817の地点で小型輸送船と「千鳥型水雷艇」を発見し、最初の攻撃で魚雷を4本発射したが命中せず、夜に入って再度魚雷を4本発射したが、これも命中しなかった。2月27日には北緯19度25分 東経111度21分 / 北緯19.417度 東経111.350度 / 19.417; 111.350の地点で2隻の70トン級海上トラックを立て続けに砲撃し、2隻とも撃沈した。翌2月28日にも北緯20度01分 東経111度25分 / 北緯20.017度 東経111.417度 / 20.017; 111.417の地点で250トン級と150トン級の海上トラックを発見して砲撃するが、損傷に留まった。3月5日、バッショーはインドシナ半島ツーラン湾沖で南号作戦のヒ98船団を発見する。ヒ98船団は、ぱれんばん丸(三菱汽船、5,236トン)と良栄丸(日東汽船、10,017トン)の2隻のタンカーと海防艦で構成されていたが、ぱれんばん丸は前日3月4日にバヤ (USS Baya, SS-318) の攻撃により撃沈されており、残った良栄丸は海防艦とともにダナンに退避し、3月5日の朝にダナンを出港して三亜に向かっていたものであった。折からの濃霧の中、バッショーはヒ98船団に接近して北緯16度47分 東経108度41分 / 北緯16.783度 東経108.683度 / 16.783; 108.683の地点で魚雷を6本発射し、うち2本が良栄丸に命中して良栄丸は船首の一部を海上に突き出したまま沈没した。良栄丸撃沈で日本の燃料事情はより絶望的に厳しくなる結果となった。攻撃後、バッショーは海防艦によって長く制圧され、夜に入って魚雷を2本発射し、命中こそしなかったがようやく逃げ切ることができた。3月6日には北緯16度18分 東経108度32分 / 北緯16.300度 東経108.533度 / 16.300; 108.533のダナン近海で2隻の海上トラックを発見し、うち250トン級海上トラックを砲撃で仕留めた。3月12日、バッショーは47日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。 3月27日、バッショーは6回目の哨戒で南シナ海に向かった。しかし、この哨戒では3月30日未明に北緯13度36分 東経109度47分 / 北緯13.600度 東経109.783度 / 13.600; 109.783の地点で病院船を、午後には北緯13度38分 東経109度23分 / 北緯13.633度 東経109.383度 / 13.633; 109.383の地点で病院船高砂丸(大阪商船、9,347トン)を発見し、4月9日にも北緯13度39分 東経109度29分 / 北緯13.650度 東経109.483度 / 13.650; 109.483の地点で別の病院船を見ただけで、獲物にはありつけなかった。4月29日、バッショーは33日間の行動を終えてスービック湾に帰投。続いてオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所へ向かう。作業は8月13日に完了し、真珠湾に向かう。その途中で終戦の知らせを受け、バッショーはメア・アイランドへの帰還を命じられた。
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