第4、第5、第6、第7の哨戒 1944年8月 - 1945年9月
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「レッドフィン (潜水艦)」の記事における「第4、第5、第6、第7の哨戒 1944年8月 - 1945年9月」の解説
8月6日、レッドフィンは4回目の哨戒で南シナ海に向かった。8月19日夜に推定位置北緯02度22分 東経109度45分 / 北緯2.367度 東経109.750度 / 2.367; 109.750のサラワク・シリク岬近海に機雷を敷設。翌8月20日午後には、北緯02度43分 東経110度39分 / 北緯2.717度 東経110.650度 / 2.717; 110.650の地点で8隻の輸送船団を発見し、浮上攻撃により三度にわたって魚雷を計7本発射したが、いずれも命中しなかった。このあと、レッドフィンは特別任務の命を受けた。これより少し前の8月12日、バラバク海峡でフライアー (USS Flier, SS-250) が触雷沈没し、艦長のジョン・D・クローリー少佐(アナポリス1931年組)以下の生存者や他の難民が、パラワン島の一角にアメリカに友好的なゲリラの手で保護されていた。レッドフィンは8月30日にクローリー少佐以下と接触、救出するため行動したが、あいにく会合予定地点に商船らしきものが停泊しており、むやみやたらと行動すれば事が露見する可能性もあった。そこで、レッドフィンは無線でクローリー少佐らと連絡を取り、予定日に会合予定地点の北緯08度48分 東経117度54分 / 北緯8.800度 東経117.900度 / 8.800; 117.900で浮上して、停泊していた200トン級海上トラックを砲撃で撃破してからクローリー少佐以下フライアーの乗員を収容した。レッドフィンはゲリラに対し、クローリー少佐以下を保護してくれたお礼として食物、潤滑油、医療用品、携帯兵器、弾薬および予備の靴、衣料を与えた。9月5日にダーウィンに到着してクローリー少佐以下のフライアー乗員を上陸させたあと、翌9月6日に出港して哨戒を再開した。9月12日午後、レッドフィンは南緯05度29分 東経120度29分 / 南緯5.483度 東経120.483度 / -5.483; 120.483の地点で「5,000トン級輸送船」と「タンカー」からなる輸送船団を発見し、魚雷を4本発射して1本が命中したと判定。爆雷攻撃と甲高いスクリュー音が聞こえたため、レッドフィンは退避した。9月19日朝には、南緯05度36分 東経122度16分 / 南緯5.600度 東経122.267度 / -5.600; 122.267のカバエナ島近海で「小型哨戒艇」を発見し、浮上砲戦で撃ち沈めた。生存者を救助後尋問したところ、船の名前は「Nanko Maru」と言った。2日後の9月21日未明、レッドフィンは南緯05度26分 東経120度46分 / 南緯5.433度 東経120.767度 / -5.433; 120.767の地点で小型輸送船と捕鯨船改装の警備艇を発見し、魚雷を4本発射して2つの爆発があったものの、相手に損害を与えなかった。9月24日には南緯04度31分 東経118度26分 / 南緯4.517度 東経118.433度 / -4.517; 118.433の地点で20トン級セイルボートを発見し、これも浮上砲戦で撃沈した。9月25日午後にも南緯01度06分 東経118度01分 / 南緯1.100度 東経118.017度 / -1.100; 118.017の地点で5,000トン級タンカーを発見して魚雷を4本発射し、その撃沈を報じた。10月7日、レッドフィンは57日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 10月26日、レッドフィンは5回目の哨戒でルソン島近海に向かった。期間のはじめはバリクパパンを空襲する爆撃機の援護任務に従事。11月8日午後、レッドフィンは北緯13度00分 東経116度48分 / 北緯13.000度 東経116.800度 / 13.000; 116.800のマニラ西方440キロ地点でマシ03船団を発見。魚雷を6本、4本、再び6本と計16本発射し、浮上して砲撃も行った。タンカー第二日南丸(飯野海運、5,226トン)はレッドフィンに気づいてすぐに反撃したが、ほどなく魚雷が命中し沈没した。11月12日には、北緯13度00分 東経118度13分 / 北緯13.000度 東経118.217度 / 13.000; 118.217の地点で航空機の直衛を配する輸送船団を発見し、追跡の上で夜に入ってから浮上攻撃を仕掛ける。魚雷を4本発射し、「9,000トン級輸送船」に魚雷が1本命中したことを確認した。護衛艦に対しても魚雷を3本発射したが、こちらは命中しなかった。その後レッドフィンはアメリカ本国に向かうこととなった。12月29日にサイパン島タナパグ港(英語版)に寄港し、翌日出港。1945年1月7日、レッドフィンは68日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った。オーバーホール中に、レッドフィンには水中に敷設してある機雷も探知できる特殊なソナーが設置された。艦長がチャールズ・K・ミラー少佐(アナポリス1939年組)に代わった。 5月30日、レッドフィンは6回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒では艦船攻撃より日本近海に敷設された機雷の状況を探索するのが主任務となっており、レッドフィンは6月23日から29日と7月2日から6日にかけて、北海道から本州沿岸部に敷設されていると目される機雷を調査した。7月10日、レッドフィンは36日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 7月30日、レッドフィンは7回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒でも九州沿岸部における機雷の敷設状況を調査するのが主任務であり、8月11日から実施していたが、4日後の8月15日に終戦を迎えた。9月5日、レッドフィンは34日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。
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