第4、第5、第6、第7の哨戒 1944年8月 - 1945年9月とは? わかりやすく解説

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第4、第5、第6、第7の哨戒 1944年8月 - 1945年9月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/28 22:17 UTC 版)

レッドフィン (潜水艦)」の記事における「第4、第5、第6、第7の哨戒 1944年8月 - 1945年9月」の解説

8月6日、レッドフィンは4回目の哨戒南シナ海向かった8月19日夜に推定位置北緯0222東経10945分 / 北緯2.367度 東経109.750度 / 2.367; 109.750のサラワク・シリク岬近海機雷敷設。翌8月20日午後には、北緯0243東経110度39分 / 北緯2.717度 東経110.650度 / 2.717; 110.650の地点で8隻の輸送船団発見し浮上攻撃により三度わたって魚雷を計7本発射したが、いずれも命中しなかった。このあと、レッドフィンは特別任務の命を受けた。これより少し前の8月12日バラバク海峡フライアー (USS Flier, SS-250) が触雷沈没し、艦長ジョン・D・クローリー少佐アナポリス1931年組)以下の生存者や他の難民が、パラワン島一角アメリカ友好的なゲリラの手保護されていた。レッドフィンは8月30日クローリー少佐以下と接触救出するため行動したが、あいにく会合予定地点商船しきもの停泊しており、むやみやたら行動すれば事が露見する可能性もあった。そこで、レッドフィンは無線クローリー少佐らと連絡取り予定日会合予定地点北緯0848東経11754分 / 北緯8.800度 東経117.900度 / 8.800; 117.900で浮上して停泊していた200トン海上トラック砲撃撃破してからクローリー少佐以下フライアー乗員収容した。レッドフィンはゲリラ対しクローリー少佐以下を保護してくれたお礼として食物潤滑油医療用品携帯兵器弾薬および予備の靴、衣料与えた9月5日ダーウィン到着してクローリー少佐以下のフライアー乗員上陸させたあと、翌9月6日出港して哨戒再開した9月12日午後、レッドフィンは南緯0529東経12029分 / 南緯5.483度 東経120.483度 / -5.483; 120.483の地点で「5,000トン輸送船」と「タンカーからなる輸送船団発見し魚雷を4本発射して1本が命中した判定爆雷攻撃甲高いスクリュー音が聞こえたため、レッドフィンは退避した9月19日朝には、南緯0536東経12216分 / 南緯5.600度 東経122.267度 / -5.600; 122.267のカバエナ島近海で「小型哨戒艇」を発見し浮上砲戦撃ち沈めた生存者救助後尋問したところ、船の名前は「Nanko Maruと言った2日後9月21日未明、レッドフィンは南緯0526東経12046分 / 南緯5.433度 東経120.767度 / -5.433; 120.767の地点小型輸送船捕鯨船改装警備艇発見し魚雷を4本発射して2つ爆発があったものの、相手損害与えなかった。9月24日には南緯0431分 東経11826分 / 南緯4.517度 東経118.433度 / -4.517; 118.433の地点20トン級セイルボートを発見し、これも浮上砲戦撃沈した9月25日午後に南緯0106東経11801分 / 南緯1.100度 東経118.017度 / -1.100; 118.017の地点で5,000トンタンカー発見して魚雷を4本発射し、その撃沈報じた10月7日、レッドフィンは57日間行動終えてフリーマントル帰投した。 10月26日、レッドフィンは5回目哨戒ルソン島近海向かった。期間のはじめはバリクパパン空襲する爆撃機援護任務従事11月8日午後、レッドフィンは北緯13度00東経11648分 / 北緯13.000度 東経116.800度 / 13.000; 116.800のマニラ西方440キロ地点マシ03船団発見魚雷を6本、4本、再び6本と計16発射し浮上して砲撃行ったタンカー第二日南丸(飯野海運、5,226トン)はレッドフィンに気づいてすぐに反撃したが、ほどなく魚雷命中し沈没した11月12日には、北緯13度00東経11813分 / 北緯13.000度 東経118.217度 / 13.000; 118.217の地点航空機の直衛を配する輸送船団発見し追跡の上夜に入ってから浮上攻撃仕掛ける。魚雷を4本発射し、「9,000トン輸送船」に魚雷が1本命中したことを確認した護衛艦に対して魚雷3本発射したが、こちらは命中しなかった。その後レッドフィンはアメリカ本国に向かうこととなった12月29日サイパン島タナパグ港英語版)に寄港し翌日出港1945年1月7日、レッドフィンは68日間行動終えて真珠湾帰投メア・アイランド海軍造船所回航されてオーバーホール入ったオーバーホール中に、レッドフィンには水中敷設してある機雷探知できる特殊なソナー設置された。艦長チャールズ・K・ミラー少佐アナポリス1939年組)に代わった。 5月30日、レッドフィンは6回目哨戒日本近海向かった。この哨戒では艦船攻撃より日本近海敷設され機雷状況探索するのが主任となっており、レッドフィンは6月23日から29日7月2日から6日にかけて、北海道から本州沿岸部敷設されていると目される機雷調査した7月10日、レッドフィンは36日間行動終えて真珠湾帰投した。 7月30日、レッドフィンは7回目哨戒日本近海向かった。この哨戒でも九州沿岸部における機雷敷設状況調査するのが主任務であり、8月11日から実施していたが、4日後の8月15日終戦迎えた9月5日、レッドフィンは34日間行動終えてグアムアプラ港に帰投した。

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