第4、第5、第6、第7の哨戒 1943年1月 - 10月
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「グルーパー (潜水艦)」の記事における「第4、第5、第6、第7の哨戒 1943年1月 - 10月」の解説
1943年1月21日、グルーパーは4回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。ベララベラ島近海で「東京急行」を警戒しつつ、1月28日には南緯07度37分 東経156度47分 / 南緯7.617度 東経156.783度 / -7.617; 156.783の地点で2隻の輸送船で構成された輸送船団を発見し、魚雷を3本発射したが命中しなかった。1月31日にも南緯07度38分 東経156度54分 / 南緯7.633度 東経156.900度 / -7.633; 156.900の地点で2隻の護衛艦がついた輸送船を発見するが、先手を取られて爆雷攻撃を受けた。2月4日、グルーパーは24隻もの駆逐艦からなる「東京急行」と航空機との戦いを観測する。2月8日から10日にかけてはレンギ島に不時着していたハドソンのパイロットであるローレンス・ロバート・マックラ中尉を救助。また、ソロモン諸島やニューギニア北岸沿岸部におけるいくつかの主要な日本軍レーダー基地を発見した。3月18日、グルーパーは56日間の行動を終えてブリスベンに帰投。艦長がマーティン・P・ホッテル少佐(アナポリス1927年組)に代わった。 4月12日、グルーパーは5回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。ブカ島近海で哨戒した後、ラバウルとウェワク、パラオ間の交通路の哨戒に転じた。5月12日未明、グルーパーは南緯03度03分 東経143度28分 / 南緯3.050度 東経143.467度 / -3.050; 143.467の地点で駆潜艇を発見。追跡していくと、夕刻には4隻の大型輸送船を基幹とする輸送船団に遭遇する。しかし、先に爆雷攻撃を仕掛けてきたので攻撃の機会がなく、夜になって浮上すると、輸送船団の姿は消えていた。それでもグルーパーは追跡を継続し、間もなく南緯02度49分 東経143度40分 / 南緯2.817度 東経143.667度 / -2.817; 143.667の地点で朝潮型駆逐艦と推定された駆逐艦を発見する。相手がグルーパーの存在に気づいて反転してきたため潜航し、爆雷攻撃をしのいで駆逐艦が去っていくのをただ待つのみであった。結局、この哨戒では魚雷発射の機会はなかった。5月29日、グルーパーは47日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。 6月19日、グルーパーは6回目の哨戒でビスマルク諸島、ニューギニア、ソロモン諸島方面に向かった。7月13日、グルーパーは南緯00度02分 東経145度00分 / 南緯0.033度 東経145.000度 / -0.033; 145.000の地点で3隻の4,000トン級輸送船と1隻の6,000トン級輸送船からなる輸送船団を発見するが、爆雷攻撃で動きを封じられる。護衛艦をやり過ごした後、浮上して追跡するがスコールで見失ってしまう。間もなくレーダーを使用して追跡を再開し、夜になって再び輸送船団に接触し、三度にわたって計6本もの魚雷を発射したが、戦果はなかった。2日後の7月15日には、北緯00度56分 東経150度52分 / 北緯0.933度 東経150.867度 / 0.933; 150.867の地点で駆逐艦に護衛された「神川丸級水上機母艦」と「日章丸級タンカー」を発見し、魚雷を4本発射する。魚雷は命中しなかったが、グルーパーの頭上を通過した駆逐艦からの反撃もなかった。トラック諸島とショートランド間の交通路に転じた後、7月19日に北緯00度34分 東経149度20分 / 北緯0.567度 東経149.333度 / 0.567; 149.333の地点で輸送船団を発見したが、この時もまた爆雷攻撃で攻撃の機会を逸した。8月3日、グルーパーは46日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。 8月25日、グルーパーは7回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。9月10日、グルーパーは北緯05度05分 東経149度55分 / 北緯5.083度 東経149.917度 / 5.083; 149.917の地点で輸送船を発見し、魚雷を4本発射して1本命中させたと判定される。続いて「東亜丸級タンカー」に対して魚雷を6本発射したが、全て外れた。9月20日にも北緯00度02分 東経150度29分 / 北緯0.033度 東経150.483度 / 0.033; 150.483の地点で鴎型敷設艇と思しき艦艇が護衛する5隻の輸送船団に接近し、輸送船に対して魚雷を4本発射してうち1本が命中したものと判断された。ラバウルとトラック間の海域を哨戒後、9月28日から29日にかけてはニューブリテン島南岸部に接近し、50人のゲリラと3,000ポンドの物資を降ろし、代わりに島に遭難していたアメリカ陸軍航空隊のパイロットを収容した。1943年におけるグルーパーの定期的な哨戒活動は、自身が戦果を挙げることはなかったが、他方面の活動で戦局に寄与した。10月11日、グルーパーは47日間の行動を終えて真珠湾に帰投。10月19日からカリフォルニア州サンフランシスコのハンターズ・ポイント海軍造船所でオーバーホールを受けた。また、艦長がフレデリック・H・ウォリング少佐(アナポリス1933年組)に代わった。オーバーホールを終えたグルーパーは、1944年1月7日に真珠湾に戻った。
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