第二次世界大戦終結までの外交政策
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「アメリカの戦争と外交政策」の記事における「第二次世界大戦終結までの外交政策」の解説
1898年7月、ハワイ併合。アメリカ議会(上院・下院とも共和党が多数派)は、アメリカがハワイを併合することを可決し、マッキンリー大統領(共和党)が署名した。1900年2月 アメリカ政府(マッキンリー大統領・共和党)はハワイを併合した。 1903年11月、パナマ独立の支援。アメリカ政府(ルーズベルト大統領・共和党)は、パナマ運河の建設、アメリカによる運河の通航管理、パナマのコロンビアからの独立、アメリカに協力的な政権の樹立を目的として、パナマの独立運動を支援し操り、パナマの独立宣言に対して、パナマを国家として承認した。 1905年9月、日露戦争の和平調停。アメリカ政府(ルーズベルト大統領・共和党)は、日露戦争の停戦・講和条約成立を調停した。 1913年、フィリピンの自治の承認。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、独立を求めるフィリピンに対してフィリピンの自治を承認した。 1917年、バージン諸島の購入。アメリカ政府(ウイルソン大統領・民主党)は、バージン諸島をデンマークから購入し併合した。 1919年6月、ヴェルサイユ条約に署名。アメリカ政府(ウイルソン大統領・民主党)は、他の第一次世界大戦の交戦国とともに、ベルサイユ講和条約に署名した。 1920年1月、ヴェルサイユ条約を批准。アメリカ議会上院(共和党が多数派)は、他の第一次世界大戦の交戦国の議会とともに、ベルサイユ講和条約を批准し、条約は発効した。 1920年3月、国際連盟の設立。アメリカ政府(ウイルソン大統領・民主党)は、他の40か国の政府とともに、戦争の抑止と多国間の対話による交渉の場として国際連盟を設立した。 1920年3月-1939年9月、国際連盟への未加盟。アメリカ議会上院(多数派は、国際連盟設立時1920年3月-1933年3月4日は共和党、1933年3月4日-第二次世界大戦発生時1939年9月は民主党)は、国際連盟への加盟を批准しなかった。国際連盟はアメリカが加盟することなく、第二次世界大戦の発生で崩壊した。 1934年、フィリピンの独立の承認。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、独立を求めるフィリピンに対して10年後のフィリピンの独立を承認した。第二次世界大戦中の日本の占領の結果、実際の独立は1946年になった。 1940年9月、日本に対する石油と鉄鉱石の輸出制限。アメリカ政府(ルーズベルト大統領・民主党)は、フランス領インドシナ植民地北部への日本軍の進駐に対して、石油と鉄鉱石の輸出を制限する経済制裁を発動した。 1941年7月、日本に対する石油と鉄鉱石の輸出禁止。アメリカ政府(ルーズベルト大統領・民主党)は、フランス領インドシナ植民地南部への日本軍の進駐に対して、日本に対する石油と鉄鉱石の輸出を全面的に禁止する経済制裁を発動し、アメリカ国内の日本の資産を接収した。 1941年11月、日本に対するハル・ノートの提案。アメリカ政府(ルーズベルト大統領・民主党)は、日本政府に対して、中国における経済的権益の放棄と中国大陸からの日本軍の撤退を求める交渉案(ハルノート)を提案した。 1945年2月、ヤルタ会談でソ連に参戦を要請。アメリカ政府(ルーズベルト大統領・民主党)は、ヤルタ会談でリトアニア、ラトビア、エストニアのソ連への併合を容認し、ソ連に日本との戦争への参戦を要請し、参戦の見返りとして南サハリン、千島列島のソ連への併合を容認した。21日、メキシコ市チャプルテペックで米州特別会議を開催。この会議で南北アメリカ大陸における集団的自衛権を定めた「米州の連帯と相互援助に関する宣言」(通称「チャプルテペック憲章」)を採択。
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