第二世代: トランジスタ式
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「計算機の歴史」の記事における「第二世代: トランジスタ式」の解説
詳細は「トランジスタ・コンピュータ」を参照 1947年、バイポーラトランジスタが発明された。1955年ごろからコンピュータの素子は真空管からトランジスタに移っていった。個別部品のトランジスタで作られた世代を指してコンピュータの「第二世代」と呼ぶ。 最初のトランジスタはゲルマニウムの点接触型トランジスタしかなく、真空管よりも信頼性が低くて、利点は低消費電力だけだった。点接触型トランジスタで作られたコンピュータは、日本のETL Mark IIIなど、わずかしかない。すぐに信頼性の高い、合金型や成長型の接合型トランジスタにとって代わられたが、速度の点では当初は点接触型のほうが上であった。 世界初のトランジスタ式コンピュータはマンチェスター大学が開発したもので、1953年に稼働開始した。2号機も同大学で1955年4月に完成している。2号機は200個のトランジスタと1300個の半導体ダイオードを使い、消費電力は150Wだった。ただし、125kHzのクロック波形の発生や磁気ドラムメモリの読み書きに真空管を必要とした。1955年2月に稼働開始した Harwell CADET は動作周波数を58kHzと低く設定したため、真空管を使わずに構成されている。初期のトランジスタは故障しやすく、コンピュータの平均故障間隔は約90分だったが、トランジスタの信頼性はどんどん向上していった。初期の商用機としては、フィルコ Transac S-2000(1957)がある。 真空管と比較としたとき、トランジスタには様々な長所がある。まず小さく、消費電力が少なく、結果として発熱量も少ない。シリコンの接合型トランジスタが登場すると真空管よりも信頼性が高く、長寿命になった(ただしその最初期は点接触型より速度は遅かった)。トランジスタ式コンピュータでは、より小さな空間に数十倍、数千倍の論理回路を詰め込むことが可能になった。トランジスタによってコンピュータの小型化・低価格化が進んだ。第二世代のトランジスタ式コンピュータは一般に多数のプリント基板で構成されている。例えば、IBM Standard Modular System では1枚の基板に4つの論理ゲートやフリップフロップを実装している。 第二世代コンピュータの1つ IBM 1401 は全世界のコンピュータ市場の3分の1を占めたことがある。IBMは1960年から1964年までに10万台以上の1401(正確には IBM 1400シリーズ)を販売した。 トランジスタを使った電子工学はCPU(中央処理装置)を改善しただけでなく、周辺機器の改善にも寄与した。世界初の磁気ディスク記憶装置は、IBMが1956年に発表した IBM 350 だが、第二世代の磁気ディスク装置は数千万の文字や数字を記録できるようになった。CPUと高速データ転送可能な固定磁気ディスク記憶装置に加えて、着脱可能な磁気ディスクパックも登場。記憶容量は固定磁気ディスク装置より小さいが、磁気ディスクパックは短時間(数秒から数十秒)で交換可能で、データを大量に保管し必要に応じて即座に使えるようになった。さらにデータの長期保管用には、より安価な磁気テープが使われるようになった。 第二世代のCPUは、周辺機器との通信処理を補助プロセッサに任せるようになった。例えば、パンチカード読み取り装置やさん孔装置との通信を補助プロセッサに任せ、CPUはプログラムを実行した。また、第二世代のころバスがCPUと主記憶装置を結ぶ高速なバスと周辺機器を接続するバスに分離している。これによって演算性能が向上した。例えば PDP-1 では磁気コアメモリのサイクル時間は5マイクロ秒で、CPUは演算命令を2サイクル(命令読み取りに1サイクル、データ読み取りに1サイクル)で実行できるため、10マイクロ秒で1命令を実行できた(1秒間に10万命令)。 第二世代では、遠隔端末(テレタイプ端末が多かった)の利用が急激に増加した。当時の端末との通信は電話回線で十分であり、数百km離れた場所にある端末と計算センターを結ぶことができた。そういった個別のコンピュータネットワークを相互接続し始めたことをきっかけとしてインターネットの誕生に繋がった。
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