第七五二航空隊
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1942年11月1日「第七五二海軍航空隊」に改称。12月27日 二十四航戦の帰還命令により木更津飛行場に向けルオット発。1943年5月にラバウルへ進出することを目標に、搭乗員の技量向上と一式陸上攻撃機への機体換装を図り、再編作業に従事することとなった。それにともない、本州東方海上の平時哨戒が実施された。しかし、ラバウル進出を目前にした昭和18年5月12日、アッツ島に米軍が上陸したため、七五二空は支援のために幌筵島に進出した。1943年5月13日アッツ島爆撃のために出撃するが、濃霧のため断念。5月18日第十二航空艦隊を新編、二十四航戦を編入。5月23日アッツ島を爆撃。29日の玉砕まで実施。7月19日幌筵島に敵機襲来。木更津に撤退。 1943年11月20日、タラワ島の地上戦が始まった。直前にトラックへの進出が決まっていた七五二空だが、予定を繰り上げてマーシャルに進出した。しかしタラワの救出はならず、マーシャルは最前線の戦場となった。1943年11月22日木更津発。24日以後にルオット着。逐次、ミレ島・マロエラップ環礁に展開。11月27日第三次ギルバート諸島沖航空戦勃発。戦果なし・3機喪失。11月29日第四次ギルバート諸島沖航空戦勃発。戦果なし・4機喪失。12月4日タラワ島を10機で空襲。12月5日ルオット島に敵機襲来、9機で追撃し、マーシャル諸島沖航空戦勃発。1944年1月30日ルオット島に上陸事前空襲。ルオット残留隊全滅。ミレ島派遣隊・マロエラップ派遣隊は七五一空要員とともにマリアナ諸島への脱出に成功。2月20日豊橋飛行場で再編決定。十二航艦第二十七航空戦隊に編入。陸攻36機を定数とする攻撃第703飛行隊、艦攻13機を定数とする攻撃第256飛行隊を編成。 機体を喪失して生還した要員の一部は本土に帰還し、豊橋の再編部隊と合流して一からの再編作業に従事した。実線投入に目処がついたころ、米軍は絶対国防圏への侵入を図り、マリアナ諸島への攻撃を企図していた。本土を拠点として硫黄島経由でマリアナ諸島を支援すべく、1944年6月14日硫黄島に先発隊12機を派遣、6月15日二十七航戦と横須賀海軍航空隊を連合し、「八幡空襲部隊(八幡部隊)」を結成。以後、散発的にマリアナ諸島に進出。1944年6月24日硫黄島に敵機襲来。以後、断続的に空襲のため戦力消耗。6月28日マリアナ沖の船団を5機で攻撃。戦果なし・4機喪失。6月30日アスリート飛行場を4機で爆撃。7月4日硫黄島空襲で機体全損、作戦行動不能。7月10日八幡部隊残留勢力を再編し、第三航空艦隊を新編。七五二空は定数拡大を除き変動なし。攻703飛行隊は木更津、攻256飛行隊は館山飛行場に常駐。7月23日「T攻撃部隊」結成のため、攻703飛行隊が転出し、横須賀空から攻5飛行隊(彗星隊)・攻501飛行隊(銀河隊)が編入。8月4日スカベンジャー作戦で小笠原来襲の米機動部隊に対し6機で夜間索敵攻撃。戦果無く、1機喪失。 1944年10月3日前後に決行を予定した「丹作戦」のため、T攻撃部隊で比較的練度の高かった攻撃第501飛行隊(銀河36機)、偵察第11飛行隊(彩雲6機)が一時的に752空に編入される。機動部隊は目標のマーシャルに帰投せず、サイパンに帰投したため、「丹作戦に準ずる作戦」と改め、サイパンに帰投した機動部隊を目標にした。10月4日偵察を行うも発見せず、機動部隊は西に出動してしまい、作戦は次の月明期まで延期となるが、762空における台湾沖航空戦、比島沖海戦によって丹作戦兵力であったT攻撃部隊を消耗したため実現しなかった。 11月15日 第一三一海軍航空隊より偵12飛行隊を譲渡。11月26日偵12飛行隊の彩雲2機、「第一御楯隊」を誘導しアスリート飛行場を強襲。 1945年2月16日敵機動部隊艦載機隊、関東を空襲。七五二空主力は大分飛行場に退避。同日、水上艦部隊により硫黄島へ艦砲射撃により稼動機払底。2月19日陸攻4機で硫黄島への強行弾薬輸送を敢行、無事成功。同日、硫黄島沖の水上艦攻撃を図り3機出撃、荒天断念。2月20日6機で硫黄島敵陣を爆撃。以後断続的に4回実施。3月5日硫黄島沖に機雷散布。3月22日陥落後の硫黄島の敵情偵察を実施。沖縄戦には若干の増援部隊を派遣したものの、七五二空の組織的活動は硫黄島戦でほぼ終了した。以後は本土決戦のために温存策を図るものの、稼動機は払底し、活動する機会を得ないまま終戦を迎えた。
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