第七二四海軍航空隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:04 UTC 版)
「橘花 (航空機)」の記事における「第七二四海軍航空隊」の解説
日本海軍は橘花を量産配備する予定だった。橘花による航空作戦の実施に向けて編成されたのが第七二四海軍航空隊である。1945年(昭和20年)7月1日、伊東祐満大佐が司令(副長兼務)に任じられる。飛行長は多田篤次少佐。原隊は神ノ池飛行場と定められ、横須賀飛行場で開隊した。定数は橘花16機・九九式艦上爆撃機24機・練習機12機である。 7月15日に練成を行う三沢飛行場に移り、艦爆による飛行訓練が始まったのは8月1日からである。隊員に選抜されたのは、6月末日をもって解隊したばかりの三沢海軍航空隊で飛行訓練を受けていなかった予科練甲飛14期生100名と16期生200名であった。飛行訓練が凍結されたのちに入隊した生徒ばかりのため、艦爆すら満足に飛ばせない状況下にあった。 したがって、11月に三浦半島へ展開させることを目標に、わずか3ヶ月の訓練が実施されることになった。さらに橘花は極端に航続距離が短いことから、敵基地へ強行着陸後、白兵戦を展開することも考えられており、陸戦の訓練も要求された。しかし、訓練開始からわずか半月で終戦を迎えたため、無謀な訓練は終了することになった。
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