りゅうぞうじ‐たかのぶ〔リユウザウジ‐〕【竜造寺隆信】
龍造寺隆信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/16 00:59 UTC 版)
龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 「九州三強の一人」や「肥前の熊」、「五州二島の大守」 などの異名が有名。 龍造寺嫡家は途絶えたとされるが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の佐賀県・長崎県諫早市・大村市などに点在するとされている。鍋島直茂は隆信の義弟である。
注釈
- ^ 曽祖父の家兼は幼い頃の隆信(円月)が、『平家物語』の中の壇ノ浦の戦いの話をすらすらと暗唱したので、只者ではないと感心したといわれている[9]。
- ^ この地は当時海岸で灯火があり、上陸の目印となった。軍勢の水先案内をした2人の漁夫には定置網漁を許可する特権が与えられた。その子孫らにより1953年(昭和28年)に石像が建立された(写真の石像は2代目)[16]。
- ^ 『歴代鎮西誌』によると、7月2日(年度不明)に陶隆房から隆信へ派された使者が、「義隆が文事に耽って諌めても聞き容れないので、この際これを除こうと思う」と伝えたとする[17]。
- ^ 江戸期に書かれた『北肥戦誌』などの記述によるものである。城親賢に関しては名和顕孝と共に耳川の戦いの直ぐ後に島津家に従属しており、これを支援すべく島津軍は宇土半島の阿蘇家臣である中村惟冬の矢崎城及び、その弟の中村二大夫の綱田城を降して橋頭保を確保、鎌田政年らが手勢を率いて隈本の城へ入って常駐している。また『上井覚兼日記』の天正10年12月25日の項に安楽寺に来襲した龍造寺勢を城氏が撃退したとあり、龍造寺側の史書とは齟齬がある。
- ^ 『北肥戦誌』の記述。島津側が実際に八代を領有したのは天正10年である[31]、[32]
- ^ ルイス・フロイスの耶蘇会総長宛書簡による[36]。
- ^ 軍記物である『肥陽軍記』には記述があるが、『龍造寺記』・『北肥戦誌』などには見られない。また、勉誠社刊 『肥陽軍記』(現代語訳:原田種眞) ISBN 4-585-05105-8 のあとがきに於いて原田は、遺言を述べるような暇は無かったろうとしている。
- ^ 「その急激な成長の裏には、隆信の狡猾かつ残忍な政略が隠されて」おり、「仏門に身を置いた者とも思えぬ、相手を偽り、策を用いてこれを陥れる非情さが、彼の急成長の大きなバネであった」[44]
- ^ マキャヴェリの政略論で鷹揚な人物の代表として持ち出されているのがその一例である。
出典
- ^ 川副 2006, p.105
- ^ 川副 2006, p.107
- ^ a b 『北肥戦誌』の記述
- ^ 『肥陽軍記』の記述
- ^ 川副 2006, p. 337.
- ^ 川副 2006, p. 104.
- ^ 大日本人名辞書刊行会 1926, p.2853
- ^ a b 川副 1967, p. 106
- ^ 川副 2006, p. 106.
- ^ 川副 2006, p. 108.
- ^ a b c 川副 2006, p. 109
- ^ 川副 1967, p. 108.
- ^ 川副 2006, p. 115.
- ^ 川副 2006, p. 119.
- ^ 『系図纂要』
- ^ 「龍造寺隆信公と網漁業(立切網・はじさし網)」「燈堂」、佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳、2018年2月14日閲覧。
- ^ 川副 1967, p. 118.
- ^ 川副 2006, p. 124.
- ^ 川副 2006, p. 133.
- ^ a b 川副 2006, p. 134
- ^ 秀村選三『水江臣記』文献出版〈九州史料落穂集 第五冊〉、1986年、38頁。
- ^ 川副 2006, pp. 183–184.
- ^ 川副 2006, p. 225.
- ^ 堀本一繁「龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長」『日本歴史』598号、1998年。
- ^ 川副 2006, pp. 281–282.
- ^ 川副 2006, p. 297.
- ^ 川副 2006, p. 291.
- ^ 川副 2006, p. 333.
- ^ 川副 2006, p. 342.
- ^ 川副 2006, pp. 334–336.
- ^ 島津修久『島津義弘の軍功記』島津顕彰会、2000年。
- ^ 池田こういち『肥後相良一族』新人物往来社、2005年。
- ^ 川副 2006, pp. 350–351.
- ^ 『北肥戦誌』
- ^ 『大日本古記録 上井覚兼日記 上』 岩波書店 282頁
- ^ 川副 2006, p. 354.
- ^ a b 川副 2006, p. 358
- ^ 川副 2006, p. 359.
- ^ 川副 2006, pp. 360–361.
- ^ 川副 2006, p. 360.
- ^ 宮本義己 著「龍造寺隆信の母―慶誾尼―」、小和田哲男 編『戦国の女性たち』河出書房新社、2005年。
- ^ 川副 2006, p. 357.
- ^ 鈴木敦子 著「肥前国における戦国期の印章使用」、有光友学 編『戦国期印章・印判状の研究』岩田書院、2006年。
- ^ 外山幹夫『中世の九州』教育社、1979年。
- ^ 『完訳 フロイス日本史 10』中公文庫 ISBN 4-12-203589-9
- 1 龍造寺隆信とは
- 2 龍造寺隆信の概要
- 3 評価
- 4 参考文献
龍造寺隆信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:58 UTC 版)
4巻より登場。色黒でがっちりとした体格の獰猛な巨漢。九州では大友、島津に次ぐ勢力を有する大名で、「肥前の熊」の異名をとる。口癖は「ベアハハハハ」という笑い声。また、他の武将たちと違い胡坐でも正座でもなく、テディベアのように足を投げ出して座るのが特徴。
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龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
「センゴク」の記事における「龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)」の解説
龍造寺家当主。肥前の熊の異名を持つ大男。その迅速な戦支度は宣教師ルイス・フロイスからユリウス・カエサルに喩えられ、大友家衰退の好機を逃さず九州西部に一大勢力を築き上げた。合戦では輿に乗り、大型の十匁筒で自ら敵前線を撃ち崩す勇猛さを見せる。
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龍造寺隆信
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「肥前の熊」と恐れられた九州・肥前の戦国大名。『4』で特殊モブ化。典型的な猛将として描かれており、熊を模した兜を被っている。沖田畷の戦いで有馬を攻め、援軍として来た島津と対峙するが、敗れる。
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龍造寺隆信
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「新・信長公記〜ノブナガくんと私〜」の記事における「龍造寺隆信」の解説
クラス番号35。スキンヘッドで大柄な肥満体の青年。コマの襲撃を受け、教室にSMプレイのような形で全裸で吊るされ辱めを受ける。
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