神田上水の管理体制の変遷とは? わかりやすく解説

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神田上水の管理体制の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:38 UTC 版)

神田上水」の記事における「神田上水の管理体制の変遷」の解説

江戸初期の上支配については明らかではない。町年寄江戸開府ころから上水管理携わっていたともいわれているが、これについては疑問視されている。 上水管理携わった思われる人物最初に史料登場するのが1618年元和4年)である。この年幕府阿倍正之に「江戸道路巡視し水道の事を沙汰せしめる。」と命じたとされている。阿倍正之どのような役割命じられたのかについてはわかってはいない。阿倍正之秀忠家光の代によく土木関係の役職に就いていたという。 1666年寛文6年)に初め上水奉行という役職がみえるようになる。 一、神田上水本所上水奉行 速水与次右衛門殿 芦原十兵衛殿 右上之義に候はゞ両人え可参候事。 一、玉川上水奉行 奥津孫助殿 永尾太夫殿 右同断 右は午(寛文六年)正月晦日御触 町触 神田上水の上奉行本所上水兼任)には速見与次右衛門芦原十兵衛2人就いている。 更に1670年寛文10年)に奈良屋市右衛門樽屋藤左衛門喜多村彦兵衛の3人の町年寄神田玉川の両上水の管理命じられた。奈良屋市右衛門樽屋藤左衛門両人徳川家康入国時の1590年天正18年)、喜多村彦兵衛2年後天正20年町年寄任命されそれ以来代々職を引き継いでいる。 羽村から代々木千駄ヶ谷までの約13里の水路両岸三間町年寄管理することとなった南側喜多村彦兵衛に、北側奈良屋市右衛門分担して管理行った。この両人浄水不浄物が投げ込まれないように、自費植えた町年寄町奉行管轄にあったため、実質的に町奉行上水支配したといって過言ではない。上水奉行から町奉行上水管理移行した背景には、1667年寛文7年)に玉川上水から神田上水に助が行われたことが挙げられている。そのため、この両上水の管理統一する必要が生じたものと思われる1693年元禄6年)に上水支配道奉行移されることになった十日元禄六年七月) 一、道奉行被爲召、向後上水支配被仰付之旨老中申渡江戸中、水道儀、今迄町奉行雖爲支配向後道奉行支配、無滞様可仕候。依之新規同心被仰付之。 道奉行 毛利内蔵助島次郎左衛門 森川太夫柳営日次記道奉行の上支配1720年享保5年)に一時中断されるが、すぐに再開された。同年11月には水道工事指揮道奉行委ねられるようになった1722年享保7年)には神田玉川上水を除く四上水廃止している。 1739年元文4年)に上水事務を再び町奉行移した八月二日元文四年) 道奉行 小倉孫三一尾伊織 神田玉川上水向後町奉行支配に相成、道奉行道方計可相勤之旨、於桔梗之間、本田伊予守殿被仰渡之。 『元文日録この年7月玉川上水水元であった玉川庄右衛門清右衛門職務不正及び怠慢罷免されている(庄右衛門江戸払い、清右衛門請負放ち)。そして、その直後町奉行上水管理移行し、更に上水事務取扱方を町年寄3人に命じ請負人設けることを許可されている。 また、同年10月には町奉行石河土佐守が町年寄の上事務取扱方に対して四ヶ条から成る規定定めている。 この玉川上水水元玉川庄右衛門清右衛門処罰から町奉行の上事務移行、更に上水取扱請負人設置まで短期間行われている。 町奉行による上水管理政策は更に続き1741年寛保元年)に作事方小普請方所管であった郊外の上事務町年寄任せそれぞれに百俵を支給している。また、同年5月上水普請方下役設置したこのように町奉行による上水管理積極的に行われている。しかし、1768年明和5年)に上水所管普請奉行移り町奉行の上支配終り告げている。 五日明和五年九月芙蓉間 金時服三。 町奉行 依田豊前守 右者、上水掛り御免之旨、只今骨折相勤候に付被下旨、右近将監松平忠元)申渡之。 同席 御普請奉行 長田越中守 久松忠次上水方通方向御用懸り被仰付旨。 右之通、老中列座同人松平忠元)申渡之。 『柳営日次記同日上水方道方下奉行御徒目付石川彌右衛門西の丸御徒目付伊藤金十郎上水道方改役に支配勘定熱田善八・御徒押田中金五郎・表火之番宮崎次郎御留守居駒木根大内記與力豊島左兵衛の4人、上水御用掛に御目付大岡主水正御勘定吟味役川井次郎兵衛それぞれ任命した。これによって職制一新され普請奉行目付勘定吟味役による「三手取扱」(正式には「道方井上方御掛」)によって上水支配を行う形を取った。 翌1769年明和6年11月には町年寄支配下にあった上水請負人見廻役を廃止している。この結果玉川上水元羽村請負人大鋸町名主茂兵衛並びに弥左衛門名主伊左衛門神田上水見廻役で神田永富町名主源六並びに小石川諏訪町名主作兵衛の4名は職を失ったことになる。これ以降町年寄上水管理関わることはなかった。 1770年明和7年)には神田上水水元であった内田茂十郎罷免されている。 1811年文化8年)には目付勘定吟味役廃止されている。これによって「三手取扱」の形が崩れ普請奉行水道管理を一手に引き受けることとなった普請奉行による上水支配百年近く及んだが、1862年文久2年)に普請奉行廃止され変わって作事奉行管理下に置かれることとなった。そして、この職制のまま明治維新至っている。

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