神田上水の管理体制の変遷
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「神田上水」の記事における「神田上水の管理体制の変遷」の解説
江戸初期の上水支配については明らかではない。町年寄が江戸開府のころから上水管理に携わっていたともいわれているが、これについては疑問視されている。 上水管理に携わったと思われる人物が最初に史料に登場するのが1618年(元和4年)である。この年幕府が阿倍正之に「江戸の道路を巡視し、水道の事を沙汰せしめる。」と命じたとされている。阿倍正之がどのような役割を命じられたのかについてはわかってはいない。阿倍正之は秀忠・家光の代によく土木関係の役職に就いていたという。 1666年(寛文6年)に初めて上水奉行という役職がみえるようになる。 一、神田上水本所上水奉行 速水与次右衛門殿 芦原十兵衛殿 右上水之義に候はゞ両人え可参候事。 一、玉川上水奉行 奥津孫助殿 永尾喜太夫殿 右同断 右は午(寛文六年)正月晦日御触 町触 神田上水の上水奉行(本所上水も兼任)には速見与次右衛門と芦原十兵衛の2人が就いている。 更に1670年(寛文10年)に奈良屋市右衛門・樽屋藤左衛門・喜多村彦兵衛の3人の町年寄に神田・玉川の両上水の管理を命じられた。奈良屋市右衛門・樽屋藤左衛門の両人は徳川家康入国時の1590年(天正18年)、喜多村彦兵衛が2年後の天正20年に町年寄に任命され、それ以来代々職を引き継いでいる。 羽村から代々木・千駄ヶ谷までの約13里の水路の両岸三間を町年寄が管理することとなった。南側は喜多村彦兵衛に、北側は奈良屋市右衛門が分担して管理を行った。この両人は浄水に不浄物が投げ込まれないように、自費で松や杉の苗を植えた。町年寄は町奉行の管轄下にあったため、実質的には町奉行が上水を支配したといっても過言ではない。上水奉行から町奉行に上水管理が移行した背景には、1667年(寛文7年)に玉川上水から神田上水に助水が行われたことが挙げられている。そのため、この両上水の管理を統一する必要が生じたものと思われる。 1693年(元禄6年)に上水支配は道奉行に移されることになった。 十日(元禄六年七月) 一、道奉行被爲召、向後上水支配被仰付之旨老中申渡之 江戸中、水道儀、今迄町奉行雖爲支配、向後道奉行致支配、無滞様可仕候。依之新規同心被仰付之。 道奉行 毛利兵橘 佐橘内蔵助 武島次郎左衛門 森川七太夫 『柳営日次記』 道奉行の上水支配は1720年(享保5年)に一時中断されるが、すぐに再開された。同年11月には水道の工事の指揮は道奉行に委ねられるようになった。 1722年(享保7年)には神田・玉川上水を除く四上水を廃止している。 1739年(元文4年)に上水事務を再び町奉行に移した。 八月二日(元文四年) 道奉行 小倉孫三郎 一尾伊織 神田玉川上水、向後町奉行支配に相成、道奉行は道方計可相勤之旨、於桔梗之間、本田伊予守殿被仰渡之。 『元文日録』 この年7月に玉川上水の水元役であった玉川庄右衛門・清右衛門が職務不正及び怠慢で罷免されている(庄右衛門は江戸払い、清右衛門は請負取放ち)。そして、その直後に町奉行に上水管理を移行し、更に上水事務取扱方を町年寄3人に命じ、請負人を設けることを許可されている。 また、同年10月には町奉行石河土佐守が町年寄の上水事務取扱方に対して四ヶ条から成る規定を定めている。 この玉川上水の水元役玉川庄右衛門・清右衛門の処罰から町奉行への上水事務の移行、更に上水取扱・請負人の設置までは短期間で行われている。 町奉行による上水管理の政策は更に続き、1741年(寛保元年)に作事方小普請方の所管であった郊外の上水事務を町年寄に任せ、それぞれに百俵を支給している。また、同年5月に上水普請方下役を設置した。 このように町奉行による上水管理は積極的に行われている。しかし、1768年(明和5年)に上水所管は普請奉行に移り、町奉行の上水支配は終りを告げている。 五日(明和五年九月) 芙蓉之間 金五枚、時服三。 町奉行 依田豊前守 右者、上水掛り御免之旨、只今迄骨折相勤候に付被下旨、右近将監(松平忠元)申渡之。 同席 御普請奉行 長田越中守 久松忠次郎 上水方通方向後御用懸り被仰付旨。 右之通、老中列座、同人(松平忠元)申渡之。 『柳営日次記』 同日に上水方道方下奉行に御徒目付石川彌右衛門・西の丸御徒目付伊藤金十郎、上水方道方改役に支配勘定熱田善八・御徒押田中金五郎・表火之番宮崎段次郎・御留守居駒木根大内記與力豊島左兵衛の4人、上水方御用掛に御目付大岡主水正・御勘定吟味役川井次郎兵衛をそれぞれ任命した。これによって職制は一新され、普請奉行・目付・勘定吟味役による「三手取扱」(正式には「道方井上水方御掛」)によって上水の支配を行う形を取った。 翌1769年(明和6年)11月には町年寄の支配下にあった上水請負人と見廻役を廃止している。この結果、玉川上水元羽村請負人で大鋸町名主の茂兵衛並びに弥左衛門名主の伊左衛門、神田上水見廻役で神田永富町名主の源六並びに小石川諏訪町名主の作兵衛の4名は職を失ったことになる。これ以降、町年寄は上水管理に関わることはなかった。 1770年(明和7年)には神田上水の水元役であった内田茂十郎が罷免されている。 1811年(文化8年)には目付・勘定吟味役が廃止されている。これによって「三手取扱」の形が崩れ、普請奉行が水道管理を一手に引き受けることとなった。 普請奉行による上水支配は百年近くに及んだが、1862年(文久2年)に普請奉行は廃止され、変わって作事奉行の管理下に置かれることとなった。そして、この職制のまま明治維新に至っている。
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