玉川 庄右衛門 (たまがわ しょうえもん)
?〜1695 (??年〜元禄8年) |
【玉川上水の開削請負人】 玉川上水を開き、江戸の飲料水を供給。 |
玉川上水の開削請負人。1653年、幕府の命により弟清右衛門とともに上水開削の請負人となった。平坦な武蔵野台地のわずかな勾配を利用、多摩川の水を羽村から引き入れて、四谷大木戸までの42.7?に及ぶ露天掘りの玉川上水を竣工させた。この功により玉川姓を賜わり、玉川上水役を任じられたが、3代のとき不届きがあり江戸払いとなった。 |
年(和暦) | ||
●1663年 (寛文3年) | ■武家諸法度改定 | |
●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | |
●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | |
●1687年 (貞享4年) | ■生類憐みの令 |
玉川兄弟
玉川兄弟(たまがわきょうだい)は、江戸時代の人物。兄は庄右衛門(しょうえもん、元和8年(1622年)? - 元禄8年6月6日(1695年7月16日))、弟は清右衛門(せいえもん、生年不明 - 元禄9年5月5日(1696年6月4日)?)。多摩川沿いの地域の農家であったとの説が有力である[1]。1653年から54年にかけて玉川上水の開削の指揮をとったことで知られる。
玉川上水工事
上水工事は2度失敗していて、1回目は日野を取水口としたとき、地面に水が吸い込まれてしまう「水喰土(みずくらいど(水を吸う=みずをくらう):浸透性の高い関東ローム層)」、2回目は福生を取水口としたとき、工事の途中岩盤に当たってしまったことであり、水喰土の失敗跡は今でも残されている。
1653年(承応2年)から工事が行われ、1654年(承応3年)までに開通した。これにより兄弟は「玉川」の姓を名乗る事が許され、上水の管理も玉川家の世襲とされたが、1739年(元文4年)に職を剥奪される。兄弟の墓所は台東区の聖徳寺にある。
その他
享和3年(1803年)に「玉川上水起元并野火留分水口之訳書」が、普請奉行・佐橋長門守佳如から老中・松平信明に提出された。玉川兄弟の話は、八王子千人同心であった小嶋文平の「書状」をもとに、佐橋長門守が幕閣に答申した報告書の形を取っている。
脚注
「玉川 庄右衛門」の例文・使い方・用例・文例
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