神田上水の構造
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神田上水を始めとする江戸の上水道は水の落差を利用して給水する「自然流下方式」と呼ばれる方式であった。 神田上水は井之頭池を水源としている。その後、各支流と合流し関口大洗堰を経て江戸市中に給水している。井之頭池から関口までは野方堀と呼ばれた開渠の堀で水を運んだ。関口から水戸屋敷までも開渠の堀で、こちらの方は白堀または素堀と呼ばれ両岸には石垣が築かれてあった。 水戸屋敷を出て御茶ノ水懸樋(万年樋)で神田川を渡り、武家地や町人地を給水していた。給水を行うために樋と枡を使って、水道網を形成していた。 『上水記』に樋と枡について下記のように記されている。 (上略)地中に樋を通し枡を置埋枡あり水見枡あり埋枡は土中に有水見枡は地上にあり又高枡有懸樋あり分水のところにわかれ枡あり水見枡のふたをあけて水勢を常に考ふ(中略)高枡にてせき上る登り竜枡は引落すみな其地の高低にしたかふしかれとも水元より高くは上らすひきく落し高く上て水勢を増又は堀の水底を潜る所ももあり是を潜樋といふ橋の下にそひて向ふの岸にわたる所もあり渡樋といふ又懸樋といふ名にて流る所を白堀といふ他方にて素堀ともいふ(下略) 『上水記』第一巻 樋は送水菅であり、石樋と木樋が一般的で他に瓦樋・竹樋などの種類もあった。 石樋は幹線として使われていた。1978年(昭和53年)に霞ヶ関の外務省の地下から発掘した石樋は玉川上水の幹線として使用されていたものである。側壁は石を積み上げて作られていることから「石垣樋」と呼ばれていた。大きさは外径寸法が1250mm×1300mm、内径寸法が850mm×750mmであった。石と石との間には粘土をつめ込み、漏水を防いでいた。この発掘された玉川上水の石樋の模造品が文京区本郷にある東京都水道歴史館に展示されている。神田上水の使用された石樋も玉川上水とほぼ同じ構造であった。1987年(昭和62年)に文京区本郷で神田上水の石樋が発掘された。この発掘された石樋(石垣樋)の一部が東京都水道歴史館と隣接している本郷給水所公苑に移築され復元されている(ギャラリー10参照)。 木樋は石樋につながる幹線と支線に用いられた。木樋には、檜・杉・栂・赤松などの木が使われていたが、檜と松が主に使用されていた。形は角型・丸型・三角型の三種類があって角型が一番多い。木樋の1本当たりの長さは2mから3mほどで、継ぎ目、合わせ目は船釘(釘の頭部には防錆のため漆が塗られてあった。)で留め、木の皮をつめて(主に檜)漏水を防ぐ構造になっている。大きさは大小様々であって、大きいもので内径が1000mmを越すものもあった。 竹樋(竹筒)は木樋と上水井戸(溜枡)との間を連結するときに用いられている。 枡は貯水槽として一時的に水を溜めておく役割をもっている。前述の『上水記』によれば、地下に設けた枡を「埋枡」、「高枡」には流水を高所に上げる「登り竜枡」と流水を低所に落とす「下り竜枡」の二種類があった。それに水の勢い(水量・水質)を見たりするための「水見枡」や分水するときに使われる「わかれ枡(分水枡)」といった枡も存在していた。また、枡は木または石でできており、樋を通すための穴が開いていた。 これらの樋と枡を使って給水をしていたわけである。配管は元禄ごろには町屋の台所にも及んでいた。道路部分の伏樋から各戸に水を引き込み、宅地内の上水用井戸に水が流れるようになっていた。長屋にも上水井戸が設置され、住人たちが共同で使っていた。 水量と水質に関しては厳重な管理が敷かれていた。神田・玉川両上水とも各所に番人を置いて毎日水量と水質を検査していた。神田上水では関口大洗堰に水番人小兵衛、水道橋外掛樋見守番人に伊兵衛が任命されていた。 水量の測定には前述の水見枡が使用されている。玉川上水では江戸市中の8ヶ所に配置されていたが、神田上水では水道橋の掛樋のみ配置されていた。 水質面では上水道が汚染されないよう高札を建てている。高札の内容は「上水で水浴をしてはならない、魚鳥を取ってはならない、ごみを棄ててはならない、物を洗ってはならない」の四項目が中心となっていた。なにしろ江戸の上水は浄水を施していないため、導水路が汚染されてしまえば飲料水には使えないのである。また、水を溜めておく枡は時々清掃し、底に溜まったヘドロを除去していた。 江戸の上水道は先に紹介した通り、「自然流下方式」である。ヨーロッパの都市では18世紀後半には蒸気機関を導入して揚水していた点で大きく異なる。江戸の上水道は一見原始的にも思える。しかし、地下に水道管を施設していた点は現在の水道に通ずるところがある。「水道の水で産湯をつかい」と江戸っ子の自慢であった上水道は当時の最新の技術を駆使したものであった。 ただ、火事や地震といった災害には脆かった。特に木樋は材質が木であるため災害が起こる度に大きな破損を受けた。更に腐蝕しやすい点もあった。木樋が破損・腐蝕すると汚物が混入しやすくなるため早急に修理しなければならない。『東京市史稿 水道篇第一』に上水修理の記録が多く載せられている。神田上水だけでも30件以上ある。修理を行うための普請金も課せられていた。
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