相模平定とは? わかりやすく解説

相模平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:39 UTC 版)

北条早雲」の記事における「相模平定」の解説

その後相模方面本格的に転進し関東南部制圧乗り出したが、伊豆・西相模失った山内家の上顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・宗瑞の政治的な立場弱くなった。更に、政元が今川氏対立関係にある遠江守斯波義寛と顕定の連携図ったことから、両者挟撃警戒されるようになる。 それでも氏親と宗瑞は、今度義稙-大内陣営与し徐々に相模勢力拡大していった。こうした関東進出大きな画期となったのは、永正元年1504年8月武蔵立河原の戦いであり、扇谷定正の甥で扇谷家当主上杉朝良味方した宗瑞は、氏親と共に出陣し山内顕定勝利した。 この敗戦後に顕定は弟の越後守上杉房能と同守護代長尾能景来援得て反撃に出る相模乱入して扇谷家諸城攻略。翌永正2年1505年)、河越城追い込まれた朝良は降伏した。これにより、伊勢氏山内家扇谷家の両上杉家敵対することになる。 永正3年1506年)に相模検地初め実施して支配の強化図った永正4年1507年)には、管領細川政元が、排除されたことを恨んだ養子細川澄之により暗殺されるという「永正の錯乱」がおきる。直後、政元と結んでいた越後守上杉房能守護代長尾為景上杉謙信の父)に殺される事件起き、政元勢力変動を機とした足利義稙永正5年1508年)、大内義興軍勢と共に義澄を追って京に返り咲いた。これらの動きにより、氏親と宗瑞に室町幕府からの圧迫無くなり、宗瑞は為景や長尾景春結んで顕定を牽制した。 永正6年1509年以降今川氏武将として活動はほとんど見られなくなり相模進出集中する。ただし、少なくとも永正9年1512年)頃まで駿府への訪問確認でき、同年には山内顕定反抗する長尾景春駿河亡命に宗瑞が関わったと考えられることから、その後今川氏の関係は続いていたとみられるまた、娘の長松院殿が今川氏重臣の子である三浦氏員と婚姻したのは永正12年1515年)頃と推定される永正6年7月、顕定は大軍率いて越後出陣し同年8月にこの隙を突いて宗瑞は扇谷上杉家本拠地江戸城迫った上野出陣していた扇谷朝良は兵を返して、翌永正7年1510年)まで武蔵相模戦った。宗瑞は権現山城横浜市神奈川区の上田政盛を扇谷家から離反させたが、同年7月になって山内家援軍得た扇谷家反撃出て権現山城落城三浦義同(道寸)が伊勢氏方の住吉要害平塚市)を攻略し小田原城まで迫ったため、宗瑞は扇谷家との和睦切り抜けた一方同年6月20日には越後に出陣していた顕定が長尾為景逆襲受けて敗死死後2人養子顕実と憲房の争い発生古河公方家でも足利政氏・高基父子抗争起こり、朝良はこれらの調停追われた(永正の乱)。 三浦氏相模名族源頼朝の挙兵参じ鎌倉幕府創立功臣として大きな勢力有していたが、嫡流執権北条氏宝治合戦滅ぼされている。しかし、傍流相模豪族として続き相模大きな力を持っていた(相模三浦氏)。この頃三浦氏扇谷家属し同氏出身当主の義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島新井城または三崎城(現三浦市)を子の義意が守っていた。 敗戦から体勢立て直した宗瑞は、永正9年1512年8月岡崎城攻略し、義同を住吉城逗子市)に敗走させ、勢い乗って住吉城落とし、義同は義意の守る三崎城逃げ込んだ。宗瑞は鎌倉占領して相模支配権をほぼ掌握する。朝良の甥の朝興が江戸城から救援駆けつけるが、これを退けた。さらに三浦氏攻略するため、同年10月鎌倉玉縄城築いた。 義同はしばしば兵を繰り出して戦火交えるが、次第圧迫され三浦半島封じ込められた。扇谷家救援の兵を送るがことごとく撃退された。 永正13年1516年7月扇谷朝興三浦氏救援のため玉縄城攻めるが宗瑞はこれを打ち破り、義同・義父子篭る三崎城攻め寄せた激戦の末に義同・義父子討ち死にする名族三浦氏滅び伊勢氏相模全域平定した。 その後上総真里谷武田氏支援して房総半島渡り、翌永正14年1517年)まで転戦永正15年1518年)、家督嫡男氏綱に譲り、翌永正16年1519年)に死去した後嗣の氏綱は2年後菩提寺として早雲寺神奈川県箱根町)を創建させている。 宗瑞は、領国支配強化積極的に進めた最初期大名であり、その点から、戦国大名先駆け評価されている。『早雲寺殿廿一箇条』という家法定め、これは分国法の祖形となった永正3年1506年)に小田原周辺指出検地在地領主土地面積年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による検地として最古事例とされている。 また、死の前年から伊勢後北条)氏は虎の印判状用いようになった印判状のない徴収命令無効とし、郡代代官による百姓職人への違法な搾取止める体制整えられた。更にこれを関東諸勢力古河公方・両上杉氏など)との対抗上、足利一族である今川氏権威を必要とし続けていたが、独自の公権力発揮し始めたことを示すものあるという評価もある。ただし、宗瑞の姉で氏親の母である北川殿はまだ健在享禄2年1529年)没)であり、宗瑞自身最後まで今川氏家臣としての立場棄てることは無かった思われる。 宗瑞の後を継いだ氏綱は北条氏後北条氏)を称して武蔵国領国拡大以後、氏康、氏政、氏直と勢力伸ばし5代渡って関東に覇を唱えることになる。

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