病気療養と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 11:14 UTC 版)
この時期の啄木は退院したとはいえ、病床に起居する生活だった。5月30日、節子の実家・堀合家が盛岡から函館に転居するという知らせが届き、6月4日に節子は見送りのため金を借りて京子とともに帰郷すると告げたが、当初金の出所を偽ったことに立腹した啄木は、帰郷するなら離婚せよと迫り、節子は帰郷を断念した。啄木が妻の帰郷を強く拒んだ原因には、2年前の家出で受けた心理的衝撃が指摘されている。妻の実家からの干渉を嫌った啄木は、同月堀合家と義絶した。 6月15日から17日にかけて長編詩「はてしなき議論の後」を執筆し、推敲抜粋ののち7月に雑誌『創作』に発表した。さらに第二詩集のため『呼子と口笛』と題したノートに6月25日から27日にかけて数編の詩を書いた(生前未刊行)。 7月には一週間高熱にあえぎ、7月28日には節子も肺尖カタルと診断される。 8月7日、小石川区久堅町(現:文京区小石川5丁目-11-7)の借家に転居した。その理由は啄木の療養の便(前記の通り二階の部屋だった)に加え、節子が伝染性のある病気にかかって店主から立ち退きを求められたことにあった。転居費用は宮崎郁雨が負担した。家事は母のカツが担い、8月10日から約1か月間はミツも同居して手伝った。だが、家族の窮状を見かねた一禎は9月3日に無断で家を出て、北海道に住む次女(啄木の次姉)夫妻の下に去った。 9月に郁雨(当時軍務で美瑛に滞在)が節子に送った手紙から再び夫婦のトラブルに発展し、これを機に啄木は郁雨とも義絶した。節子が実家に戻らぬことを約してトラブルは収まり、郁雨からの経済的援助を失った啄木は、節子に家計簿(金銭出納簿)を付けさせ始めた。頼る先のなくなった家庭の窮状は家族間の対立を和らげる結果になったものの、毎月10円から20円収支が不足する状況だった。啄木の創作活動は9月以降はほぼ途絶えるが、11月にはクロポトキンの『ロシアの恐怖』の筆写を終わり製本した。 12月になると高熱が続き、『二葉亭全集』の業務も他の社員に引き継いだ。年末に元朝日新聞記者の西村真次(『二葉亭全集』の前任者)、また1月に入ってから森田草平に支援を求め、それぞれ資金援助を受けた。 1912年(明治45年)1月、カツも喀血や咳を発症し、往診により重い結核で冬は乗り切れないと診断される。朝日新聞社内では杉村広太郎(社会部長)を中心にカンパがなされ34円ばかりが届けられた。2月20日をもって日記の記載が途絶える。一方、1月に堀合家の長男(節子の弟)が失踪、義父から手紙で伝えられた啄木は、節子が東京の新聞を実家に送ることを許し、これにより義絶状態が緩和された。 3月7日、母カツが死去し、9日に土岐哀果や丸谷喜市の援助で葬儀(哀果の実家である、浅草の等光寺で挙行、納骨)。母の死の衝撃で病状は悪化し、4月5日に一禎が啄木危篤の報を受けて上京した。 4月9日、土岐哀果や若山牧水の援助で第二歌集(後の『悲しき玩具』、当時は『一握の砂以後』というタイトルだった)を東雲堂書店が出版することが決まり、原稿料20円が(前借りとして)もたらされた。 4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町の自宅にて肺結核のため死去。妻、父、若山牧水が看取った。牧水の回想では、その日の未明に昏睡状態に陥ったため、早朝に牧水と金田一京助が呼ばれたが、そのとき節子が声をかけると意識を回復させ、まもなく会話もするようになったことから、金田一はこれなら大丈夫と勤務先の國學院に向かった。しかしその後容態が急変し、まもなく没したという。満26歳没。このとき節子は妊娠8か月だった。
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病気療養と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 14:07 UTC 版)
2010年1月13日、ヤラドゥアは心臓病の治療のため、サウジアラビアの病院に入院中で、50日間大統領不在のため国政に混乱が生じていると報じられた。このため2月9日、大統領権限が副大統領のグッドラック・ジョナサンに移譲された。同年4月には会話困難な状況であると報じられていたが、5月5日に心臓病の為に大統領官邸にて没した。58歳没。
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