由来沿革
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綴子大太鼓を氏神綴子神社に奉納する綴子神社例祭は、7月14日、15日を定日として行われている。 鎌倉時代の1262年(弘長2年)頃から始まったと伝えられている。綴子は水源と水路の便が悪く、常時灌漑用水の不足に悩み、その対策として雨乞いと日和上げの神事として始められたもので、大太鼓の大音響を雷鳴に似せ、天上の神に祈りを籠めて雨を降らすといった氏子農民たちの切なる祈願であった。 始めの頃は、上方(山手)は源氏、下方(下手)は平氏になぞらえて行われていたが、江戸時代になって上方は葵の紋章をきざした徳川方、下方は千成瓢箪の纏を馬印とした豊臣方の両派に分離され、競争の激化と共に、風流化も促進された。明治の中期から末期、大正の末期から昭和初期が最も競争が激しく盛大で、奉納の先陣争いが激しくなったため、1930年(昭和5年)から上町下町一年交代の行事として今日に至っている。西暦偶数年が上町、奇数年が下町の当番となっている。 行事が始まった頃の太鼓の大きさは直径約70cm(2尺から3尺位)のものであったといわれる。幕末から明治期に1.5m位(4、5尺)のものとなり、明治末期から1.8m位(5、6尺)のものになる。1930年(昭和5年)に至り、下町で2.1mの大太鼓を新調製作、1931年(昭和6年)上町は直径2.16mの大太鼓を新調製作する。 その後、1955年(昭和30年)上町が直径2.42mの大太鼓を改造修理製作、1957年(昭和32年)下町は直径2.52mの大太鼓を改造修理製作、1975年(昭和50年)上町は直径3.00mの大太鼓を新調製作、1976年(昭和51年)下町は直径3.18mの大太鼓を新調製作、1979年(昭和54年)上町は直径3.63mの大太鼓を改造修理製作している。 1986年(昭和61年)に下町が直径3.71mの大太鼓を新調製作し、1989年(平成元年)にギネス世界記録の認定を受けた。1992年(平成4年)には上町が直径3.80m新調製作している。 現在は、上町が直径3.80m(一番太鼓)、直径3.33m(二番太鼓)、直径2.61m(三番太鼓)、下町が直径3.71m(一番太鼓)、直径3.44m(二番太鼓)、直径2.47m(三番太鼓)の大太鼓を所有している。 大太鼓の胴材には天然秋田杉、皮面にはホルスタインの種雄牛を使用している。 大太鼓の運搬は、二筋の縄40人で(一筋20人)、その後、馬や牛で引いていたが、現在はトラクターを利用している。
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由来・沿革
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各地の赤坂地名は、赤土の坂に由来すると解されている。このほか急な「上がり坂」がアカサカへ転訛したとする説などがある。赤坂地名は傾斜地や丘陵端にあることが多い。 赤坂地名は古くから現れており、早くは奈良時代中期の「平城京出土木簡」に備後国沼隈郡赤坂(現:広島県福山市赤坂)が、『続日本紀』に伊勢国鈴鹿郡赤坂(赤坂頓宮)の記事がそれぞれ見え、平安時代中期の『延喜式』『和名抄』には備前国赤坂郡と備後国赤坂郷が見えている。鎌倉期に入ると、美濃国不破郡赤坂(→赤坂宿 (中山道)。現:岐阜県大垣市赤坂)、三河国宝飯郡赤坂(→赤坂宿 (東海道)。現:愛知県豊川市赤坂町)、筑前国那珂郡赤坂(→赤坂 (福岡市)。現:福岡市中央区赤坂)などが史料に現れるようになり、その後、南北朝期、室町期、戦国期を通じて赤坂地名が史料上に多く検出されている。 赤坂地名のうち特に著名なのが東京都港区の赤坂である。東京の赤坂は中世以前には見られず、江戸初期に発祥したと考えられている。由来には、茜草が生える赤根山への坂(現在の紀伊国坂)によるとする説、その坂に染物屋が坂に赤い絹を干したことからとする説、赤土の多い土壌に幾多の坂が存在していたとする説などがあるが、寛永年間に建てられた江戸城の門が地元の小字から「赤坂御門」と呼ばれるようになり、ここから赤坂が一帯の地名になったと考えられている。
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