生後まもなく満洲へとは? わかりやすく解説

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生後まもなく満洲へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:30 UTC 版)

安部公房」の記事における「生後まもなく満洲へ」の解説

北海道開拓民両親をもつ安部浅吉井村よりみの二男二女長男として、1924年 (大正13年) 3月7日東京府北豊島郡滝野川町 (現東京都北区西ケ原) に生まれる。 本籍地北海道上川郡東鷹栖町 (現旭川市)。1923年 (大正12年)、満洲医科大学 (現中国医科大学) の医師であった浅吉勤務先奉天市から一時出向していた東京でよりみと結婚翌年、よりみは公房を妊娠中に唯一の小説スフィンクスは笑う』 (異端社)を上梓するが、以後一切の筆を折った1925年 (大正14年)、生後8ヵ月安部公房家族と共に満洲渡り奉天日本人地区幼少期過ごした小学校での実験的な英才教育五族協和」の理念は、後に安部作品思想大きな影響及ぼした1937年 (昭和12年) 4月旧制奉天第二中学校入学奉天実家にあった新潮社世界文学全集第一書房近代劇全集などを読み、特にエドガー・アラン・ポー作品感銘を受ける1940年 (昭和15年)、中学校4年飛び級して卒業日本に帰国旧制成城高等学校 (現成城大学) 理科乙類入学ドイツ語教師阿部六郎 (阿部次郎実弟) からの影響戯曲実存主義文学耽読する。在学中高木貞治の『解析概論』を愛読し成城始まって以来数学天才称された。 同年冬に、軍事教練影響風邪こじらせ肺浸潤発症一時休学し奉天実家帰り療養恢復待って1942年 (昭和17年) 4月復学同年12月9日エッセイ問題下降依る肯定批判』を書き翌年2月発行され高校校友会誌「城」の第40号に掲載される。これが安部活字化された最初作品となった1943年 (昭和18年) 3月戦時下のため繰上げ卒業この頃安部の初の小説とされる『(霊媒の話より) 題未定』を書く。同年10月東京帝国大学医学部医学科入学1944年文科系学生徴兵猶予取り消され次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系徴兵される番だ」という想いと「敗戦が近い」という噂から家族安否気遣い同年末に大学無断満洲帰るが、友人代返をして取り繕ってくれていた。1945年 (昭和20年)、奉天開業医をしていた父の手伝いをしていた頃に召集令状が届くが、入営前に8月15日終戦迎えた同年冬、発疹チフス大流行して診療にあたっていた父が感染して死亡する1946年 (昭和21年)、敗戦のために家を追われ奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年暮れ引き揚げ船にて帰国北海道祖父母宅へ家族送りとどけたのち帰京する以後安部中国再訪することはなく、小説家としても満洲における体験書くことはなかった。

※この「生後まもなく満洲へ」の解説は、「安部公房」の解説の一部です。
「生後まもなく満洲へ」を含む「安部公房」の記事については、「安部公房」の概要を参照ください。

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