現代のエジプト学における評価
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「クフ」の記事における「現代のエジプト学における評価」の解説
エジプト学者はクフの評価が時と共にどのように変化したか、その理由と原因を調べた。近年の調査によって、同時代資料、後のギリシア語とコプト語の文書が伝えるクフの評価がゆっくりと変化し、ギリシアとプトレマイオス朝時代にはまだ肯定的な評価が勝っている事が明らかとなった 。例えば、アラン・B・ロイド(Alan B. Lloyd)は第6王朝の文書と碑文にあるメナト・クフ(Menat-Khufu クフの看護師)と呼ばれる重要な都市の存在を指摘している。この都市は中王国時代の間は未だ高い評価を維持していた。ロイドはこのような類の都市名は、評判の悪い(または少なくても疑わしい)王の名前から選ばれないと確信している。更に、彼はギーザの外でもクフのために葬祭儀式が行われた場所が膨大にある点を指摘した。これらの葬祭儀式はサイス朝時代(第26王朝)とペルシアの支配の時代(第27王朝)でも実施されていた。 第一次ペルシア支配時代の有名な嘆きの書は過去の記念碑的な墳墓について興味深い視点を示している。これらはその頃には虚栄心の証拠と見なされていた。しかし、これらは王自身についての否定的な評判を示唆するものではないので、クフを否定的に評価するものではない。 現在のエジプト学者はヘロドトスとディオドロスの伝える話は、著者の時代の価値観に基づいて名誉を損なうものであると評価している。エジプト学者達はまた、古典古代の著作家達はクフの時代から2000年程も後の時代を生きていることを強調し、その伝承の信憑性に対して注意するよう呼び掛けている。確かに彼等が利用できた情報源には限界があった。付け加えてエジプト学者達は古代エジプト人達の価値観、が古王国時代から完全に変わっている点を指摘する。ギーザのピラミッド群のような特大の墳墓はギリシア人や新王国の神官達さえ悪い意味で驚かせていたに違いない。なぜならば彼らに確実に異端の王アクエンアテンと彼の巨大な建築プロジェクトを連想させたからである。この極めて否定的なイメージは明らかにクフと彼のピラミッドに投影された。この見方はクフの生前には貴重な石を作った特大の彫像の作成と設置が王にのみ許されていたという事実によって増大された可能性がある。葬祭殿と神殿の神官達はギリシア人の著作家の時代には、誇大妄想的な性格の結果とする以外、クフによって建てられたこの堂々たるモニュメントとクフ王像について説明をすることができなかった。これらの見解とその結果についての話はギリシア人の歴史家によって熱心に拾い集められたため、クフについての否定的な評価が作り出された。なぜなら、このようなスキャンダラスな物語は、聖徳の王について語るよりも読み手に好まれたからである。 更に複数のエジプト学者達は、大プリニウスやフロンティヌス(70年頃出生)のようなローマ時代の歴史家がギーザのピラミッドを嘲ることを躊躇しなかった事を指摘する。フロンティヌスはこれらを「他愛のないピラミッド、ローマの放棄された水道橋に不可欠な構造を含んでいる」とし、大プリニウスは「無益な愚かな王家の虚飾」と描写した。エジプト学者はこれらの批判に、政治的、社会的な意見を刺激する意図をはっきりと見ている。だが、これらのモニュメントの意図は忘れ去られたものの、建造者の名前は不滅のままであった。 このようなギリシア人とローマ人の間に広まっていたクフの悪い評判の別の手がかりは、クフの名前のコプト語文書にあるかもしれない。エジプトのヒエログリフの形成する「クフ」(Khufu)は、コプト語ではシェフェト("Shêfet")と読まれた。これは当時の言葉では「悪運」または「罪深い」という意味になったであろう。後にコプト語の読みでは「クフ」(Khufu)の発音が「シュフ」(Shufu)となり、それがギリシア語文書に登場する「スフィス」に繋がった。コプト語の「クフ」の読みにある良くない意味合いが、ギリシア人とローマ人の著作家に無意識のうちに影響を与えたかもしれない。 他方では、一部のエジプト学者達は古代の歴史家達はこれらの物語の情報源を神官達からだけではなく、ネクロポリスの建設の時代に近い時代の人々にも持っていた考えている。「平民」(simple folk)の間でもまた、ピラミッドについて否定的、批判的な意見が伝承されていた可能性がある。神官による葬祭儀式は確かに伝統の一部であった。ただ言い添えるならば長年に渡る文学的伝統はクフの人気を証明しない。クフの名前が古くからの文学的伝統の中で生き延びていたとしても、異なる文化の輪がクフの人格や歴史的行為について異なる視点を育んでいた。 現代のエジプト学者と歴史学者達はアラビアの説話の信憑性についても注意を呼び掛けている。古代のアラブ人は厳格な宗教的信念により唯一の神が存在すると認識していたため、他の神々に言及することができなかった。結果として、エジプトの王と神々を聖書の預言者と王達に置き換えた。エジプトの神トト(ギリシア人には「ヘルメス」と呼ばれていた)は、預言者の名にちなんでエノクと名付けられた。クフは既に述べたように「サウリド」「サルーク」または「サルジャク」と名付けられたが、異なる物語ではしばしば預言者の名前サッダード・ビン・アド(Šaddād bīn 'Âd)に置き換えられた。更に学者達はアル・マクリーズィーの記述の中にいくつかの矛盾を指摘している。例えば、ヒタート(Hitat)の最初の章では、コプト人達はエジプトへのアマレク人の侵入を否定し、ピラミッドはサッダード・ビン・アドの墓として建てられたと言っている。しかし、後の別の章では、アル・マクリーズィーはコプト人達がサウリドがピラミッドの建造者であると言っていると主張する。
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