玉錦の死 - 親方業との二足の草鞋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 20:39 UTC 版)
「玉ノ海梅吉」の記事における「玉錦の死 - 親方業との二足の草鞋」の解説
玉ノ海の取り口は大関級と言われながら1937年5月場所で小結、1938年1月場所では関脇へ昇進したが、最大の武器である右腕を負傷したことで取組を棄権、これによって負け越しとなり、平幕へ陥落した。それでも同年5月場所は武藏山武・男女ノ川登三を敗って金星を奪うなど右腕の怪力ぶりは順調に回復し、再び三役昇進を果たそうと日々稽古を行っていた。 ところが、同年12月4日に年寄・二所ノ関を二枚鑑札で襲名していた玉錦三右エ門が急性盲腸炎で現役死亡したため、急遽、年寄・二所ノ関を二枚鑑札で継承した。これ以降、玉ノ海は現役力士と親方業の兼務に多忙を極めることとなるが、1939年1月場所9日目には、同場所4日目に連勝が69で止まったばかりの双葉山定次に勝利し、玉錦三右エ門の霊前に報告したことが話題となった。この取組は、飛び込んで右を差すと、怪力と呼ばれた右下手から掬い投げ、出し投げを打ち、体勢の崩れる双葉山をより詰め、最後は左前ミツを取って、突きつけるように寄り切った、という流れであった。これが自身の双葉山戦初勝利であった。 この頃の取り組みは変則的な部屋別総当たり制が採られており、大部屋の力士は同門はもちろん傍系部屋の力士とも対戦せずに済んでいたところ、小部屋の玉ノ海は大部屋の強豪力士と次々と対戦せざるを得ない不利な状況に置かれていた。こうした事態を重く見た相撲協会は1940年春場所より東西制を復活させることとし、玉ノ海の負担は幾分和らいだ。 1941年1月場所は前頭6枚目で11勝4敗、同年5月場所は小結に昇進して13勝2敗(史上初となる小結力士の13勝)、1942年1月場所では関脇に返り咲いて10勝5敗の好成績を収めたことで大関への昇進が目前だったが、親方業との兼務による疲労から感冒に感染してしまい、昇進は果たせなかった。以前から「実力は大関」と周囲から認められていたが、玉錦の急逝によって部屋を引き継がなければならない立場だったことで多忙を極め、その不運で昇進できなかったことから「玉錦が生きていれば(玉錦の稽古によって)間違いなく(大関に)なっていた」と言われていた。 1945年11月場所を最後に現役を引退し、親方専任として後進の指導に当たった。協会員としては時津風の良き相談役として活躍し、理事まで務めた。二所ノ関部屋師匠在任中、大ノ海、力道山、琴錦などの関取を育てた。しかし、第二次世界大戦が激化していた1943年後半から当時の部屋経営の生命線となる一門別巡業がままならず、100人近くの弟子を抱える二所ノ関部屋は食糧事情の悪化に苦しんでいた。そんな時、当時の兵庫県知事が「午前中は勤労奉仕、午後は慰問相撲を行えば衣食住の面倒を見る」と持ちかけたため玉ノ海は兵庫県尼崎市を部屋の本拠地にする決心をした。部屋を旅館としても運営する、力士達に副業を提案するなど経営に尽力していた。幕内まで昇進した者には内弟子を採用して分家独立することを奨励するなど育成面でも画期的な方針を打ち出した。兵庫県西宮市で二所ノ関部屋単独の勤労奉仕を行っていたところ、捕虜を微用したとして戦後直後に戦犯容疑で逮捕された。すぐに釈放されたものの、玉ノ海としてはどういう理由で戦犯容疑にかけられたのかがよくわからず、騒動に際して日本相撲協会から説明を求められても何も答えられなかった。この時の協会の対応に冷遇を感じたことや6代出羽海との軋轢を理由に、部屋を佐賀ノ花勝巳に譲って1951年に廃業した。
※この「玉錦の死 - 親方業との二足の草鞋」の解説は、「玉ノ海梅吉」の解説の一部です。
「玉錦の死 - 親方業との二足の草鞋」を含む「玉ノ海梅吉」の記事については、「玉ノ海梅吉」の概要を参照ください。
- 玉錦の死 - 親方業との二足の草鞋のページへのリンク