独立系成人映画の時代
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同年11月には、国映が配給した『牝狼』(監督竜神昇)、東京企画が配給した『血と肉と罪と』(監督深田金之助)の2本の主演作と、加山が助演し六邦映画が配給した藤三恵子の主演作『娼婦真紀子抄 砂の穴』(監督深田金之助)の合計3本が立て続けに公開された。いずれも加山 恵子と改称しての出演である。『血と肉と罪と』は『血と肉』の題で同時期に六邦映画が配給したともされているが、同作と『娼婦真紀子抄 砂の穴』の2作は、東映京都撮影所の女優であった日高綾子がいずれも企画・出演、同じく深田金之助(1917年 - 1986年)がいずれも企画・監督した作品である。深田も大西秀明と同じく、前年の撮影所第1次人員整理の際に東映を退社しており、『血と肉と罪と』および『娼婦真紀子抄 砂の穴』は深田が独立系成人映画に踏み出した最初の作品であった。 『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、加山には触れていない。田中は、同じくおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、南部泰三、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに深田金之助の名を挙げており、深田の成人映画転向の第1作の主演女優である加山は、黎明期の独立系成人映画の重要な女優と言える。加山はこの後、日高・深田が組んだ『現代悪女伝 ピンクピンク作戦』(同年12月公開)、『砂の穴 情事のからくり』(1966年2月公開)、『快楽の罠』(1967年7月11日公開)の3作に主演した。 1966年(昭和41年)4月、プロダクション鷹が製作した扇町京子の主演作『女体標本』(監督木俣堯喬)に助演した後、同年5月には、当時、木俣と提携していた若松プロダクションが製作した『ひき裂かれた情事』(監督若松孝二)に主演、同作は、加山の代表作とされる。 加山の初主演作を監督した大西秀明は、独立2作目以降「大西孝典」と改称し、同年10月に公開された『女郎妻』から映建工芸での製作・監督を開始しており、加山は同作にも主演した。以降、加山は、同社の作品はほとんどの作品に主演、ないしは助演でも出演した。1967年(昭和42年)12月16日に公開された『十一人の侍』(監督工藤栄一)に「芸者」役で端役出演、2年ぶりの東映京都撮影所作品であった。翌1968年(昭和43年)5月1日に公開された『徳川女系図』(監督石井輝男)は、同撮影所が製作したメジャー系成人映画であり、加山は「おゆき」役で出演している。 1969年(昭和44年)2月に公開された『甘きつつ噛む』(監督大西孝典)に主演して以降、同作を最後に作品歴が途切れる。同作を製作・監督した大西も、同作を最後に「健康を害して」映画界を引退している。同時期に東映から独立した深田金之助は、加山が主演した『快楽の罠』を最後に2年前にすでに沈黙している。以降、加山の消息は伝えられておらず、存命であれば、2015年(平成27年)には75歳の高齢である。
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独立系成人映画の時代
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1965年(昭和40年)からは独立系成人映画の世界に転身、同年5月には藤田 潤八の名で『艶説四谷怪談』、岡野 進の名で『熱い夜』をそれぞれ監督、いずれも東京放映(代表・吉野達弥)の製作、新東宝興業の配給によって公開された。同年7月には、『艶説四谷怪談』に主演した左京未知子を起用して『性の代償』を監督(「岡野進」名義とも)、自らのプロダクション(藤プロダクション)の製作、センチュリー映画社(代表・井上猛夫、1964年10月設立)の配給により公開された。追って同年8月、東京都港区麻布笄町(現在の西麻布)に設立された六本木映画株式会社(代表・長屋喜代美)に参加する。『日本映画発達史』の田中純一郎によれば、同社は、藤田を中心とした製作会社である。1966年(昭和41年)前半にセンチュリー映画社が倒産しており、藤田は、同年7月15日に同区西新橋2丁目5番1号に設立された株式会社東京映画社(代表取締役・高木波英、常務取締役・藤村政治)の設立に参加、同社の取締役製作担当に就任する。東京映画社が製作した映画は「島村公平」が監督した『偽れる性』(1966年8月)以外の記録が残っていない。藤村政治(生年不詳 - 2010年)は、その後、ワールド映画の営業部長を経て、プリマ企画を設立した。田中純一郎は、『日本映画発達史』のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、深田金之助、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、藤田の名を挙げている。 1967年(昭和42年)11月21日に公開された岸信太郎との共同監督作『ダブルドッキング』(主演辰巳典子)以降の作品歴が不明である。「岸信太郎」とは、ヤマベプロダクション代表の山邊信雄の変名であり、同プロダクションの製作、関東映配の配給により公開された。山中貞雄の弟子であり、かつて「鳴滝組」のメンバーとして藤田とは近い存在であった萩原遼もまた、1969年(昭和44年)4月に公開された乱孝寿の主演作『異常の性 年上の女』で独立系成人映画の世界に踏み出している。萩原は5作を監督したが、いずれも東京興映(代表・小森白)が製作したものであり、藤田との直接の関係は不明である。 『日本映画監督全集』が発行された1976年(昭和51年)12月24日の段階では、藤田の項を執筆した岸松雄は「最近聞けば先日まで病院で療養の身だった」という当時の近況を知らせている。離婚した妻が育てた2人の子息は、いずれも外食チェーンのスエヒロに勤務したという。
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