独立系成人映画初期の配給会社
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「センチュリー映画社」の記事における「独立系成人映画初期の配給会社」の解説
1964年(昭和39年)10月1日、井上猛夫が代表取締役社長となり、東京都中央区銀座4丁目1番地(現在の銀座4丁目6番1号)の三和銀行ビルに設立した。井上は、同社設立の7年前に当たる1957年(昭和32年)11月12日に公開されたドキュメンタリー映画『世界は恐怖する 死の灰の正体』(監督亀井文夫)の製作に携わり、大野忠と連名で「製作」にクレジットされた人物である。そのさらに4年前に当たる1953年(昭和32年)6月には港区芝田村町4丁目(現在の西新橋2丁目)に日本映研を設立、同社の代表取締役として、短篇映画、文化映画、劇場用映画、テレビ映画を製作していた。日本映研のおもな作品は『能』(1965年)ほか。 営業部長に藤村政治(生年不詳 - 2010年)、関西支社長には日本セントラル映画取締役の矢島宜男、中部支社長には日活、次いで洋画配給の昭映フイルムの両社において中部支社長だった杉山良吉(1911年 - 1992年)らを営業部門に据えた。関西支社長の矢島が取締役を兼任していた日本セントラル映画は、日活の記録課長であった矢島常二(1900年 - 1981年)が、同年4月に大阪に設立した配給会社であった。 本格的に配給業務を開始したのは、同社が設立した月に南部泰三の第八芸術映画プロダクション(1959年10月創立)が映画日本新社と提携製作した『殺られた女』からであり、以降、南部泰三の監督作、第八芸術映画プロダクションの製作物の配給から始めている。同作は、渡辺護の回想によれば、渡辺が初めて成人映画の助監督を務めた作品であった。月間1作のペースから、1965年(昭和40年)4月から月間2作になった。同月に公開された南部の監督作『女こまし』、同じく同作の脚本を執筆した糸文弘の監督作『色ざんげ』であった。糸文弘は、同年1月にLL企画プロダクションを設立しており、次作の『愛撫』はLL企画が製作し、同年6月、センチュリーが配給して公開している。同年7月には、沢賢介の監督作『漁色』、山下治がプロデューサーの菜穂俊一の名で監督した『未成熟』、藤田潤一が藤田潤八(あるいは岡野進)の名で監督した『性の代償』の3作を配給、以降、月間3作のリリースペースをつかんだ。 この時期の成人映画の興行環境は、同年4月に大蔵映画が興行網「オーピーチェーン」を提唱、大蔵直営を中心に9館を束ね、日本シネマフィルム、関東映配、葵映画、関東ムービー配給社、ヒロキ映画などが製作した作品を大蔵映画が配給し、同月第1週からこれらの作品の上映を開始しており、かつて新東宝の関西支社が主体となって設立された第1次新東宝映画、国映等が、センチュリー同様に配給業務を行っていた。 同年10月には、同年4月に元俳優の斎藤邦唯(1929年 - )が設立した扇映画プロダクションが製作した『紅壺』(監督渡辺護)を配給したが、同作は日本セントラル映画と配給を棲み分けた。以降、扇映画プロダクションとの配給提携は、センチュリーの倒産まで続いた。渡辺護の回想によれば、扇映画の斎藤は、センチュリーが配給した『悶える女子学生』(監督南部泰三、1964年11月公開)を製作した人物だという。同年11月、大蔵貢が専属女優の扇町京子を監督に抜擢、「南進映画」の名義で製作した『やくざ芸者』(主演志摩みはる)の配給をセンチュリーが引き受け、公開している。同社営業部長であった藤村政治は、同年11月に同社が配給して公開した『夜のいたずら』(監督・脚本酒匂真直)に原案を提供したほか、翌1966年(昭和41年)1月に公開された同じく酒匂真直の監督・脚本作『女で銭を抱け』にも「藤村治」の名で原案を提供、同月に公開された沢賢介の監督作『未亡人日記』には「藤村治」の名で「企画」としてクレジットされた。 同年3月、『人妻がもえるとき』(監督遠藤由希夫)、『白痴女』(監督武市芽良夫)、『処女非情』(監督清水正二郎)の3作を配給したが、同年上半期、前述の第1次新東宝映画が倒産したのと同時期に、同社も倒産した。翌1967年(昭和42年)に発行された『映画年鑑 1967』(時事通信社)は、この2社の倒産を「大手二社が倒産」と表現した。
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