狩猟・農耕の神として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 12:55 UTC 版)
「タケミナカタ」の記事における「狩猟・農耕の神として」の解説
「日本の獣肉食の歴史」も参照 太古の諏訪湖は現在よりも水位が高く、湖北の一部を除いては稲作に適した平野がなかったことから、往時は狩猟採集は基礎文化であり、鹿、猪、兎等は日常的に食べられていた。この日々の現実は、諏訪の神の「狩猟神」という性質の形成につながる。 農耕の普及につれて、頻繁に行われたであろう狩猟が整序され、儀式化してしまう。八ヶ岳山麓にある諏訪社の狩り場「神野(こうや)」は一般は入ることの許されない禁足地と化し、皮肉なことに一般民衆の狩猟を制限して、民衆を半ば強制的に農耕文化へと移行させることとなった。 上社には古くは年中四度の御狩神事があった。 押立御狩(おしたてみかり)神事(五月会、5月2日~4日) 御作田(みさくだ)狩押立神事(6月27日~29日) 御射山(みさやま)御狩神事(御射山祭、7月26~30日) 秋庵(あきお、闢盧・秋尾とも)御狩(9月下旬) このほか、1月4日には小規模の打向御狩神事(筆用の毛を採るために行われる)があった。また、年四度の御狩には正式に含まれていないが、正月元旦の蛙狩神事は「生贄の初め」とされた。 東南アジアでは稲作儀礼には動物供犠が付随することが多く、古代日本においても稲作のために動物が生贄として捧げられる事例がいくつか確認できる。上社では6月下旬の御作田御狩で獲た贄を奉納した直後に田植神事があり、7月の御射山祭の後に憑(田の実)神事があり、9月の秋庵御狩の際に新嘗があり、狩猟神事と農耕神事がセットで行われている。なお、御射山祭は本来、水霊信仰・稲作信仰を原点とする下社固有の(狩猟・供犠を含めたであろう)農耕祭事であり、稲作においては後進であった上社がこれを馬術・狩猟中心の祭りとして模倣したとも考えられている。 春に行われる上社最重要の神事の大御立座(おおみたてまし)神事(御頭祭)にもこの狩猟と稲作の一体化は見られる。神使(おこう)と呼ばれる6人の男児が大祝の代理として湛(たたえ)というミシャグジ降ろしの聖地で鉄鐸による豊作の請け負いをする農耕儀礼であるが、出発以前には鹿、猪、兎、そして魚介類などが神饌として献じられ、それを参加者一同がいただく饗膳式があった。更に、神使が湛廻りから帰ると野火をつけて真志野村の野焼社(現在の習焼神社)で神事を行い(酒と「折骨」、すなわち鹿のももが奉納される)、最後に田植えの真似をする。 「鹿なくては御神事はすべからず」といわれるほど、上社の祭事には鹿は欠かせないものであった。中世の大御立座神事で供えられる75頭の鹿の頭や、鹿角製の宝印等から上社における鹿の重要性がうかがえる。上社本宮付近のフネ古墳にも、鹿角で作られた剣の鍔や刀子の柄が発見されている。 昔は狩猟儀礼や動物供犠は諏訪だけでなく、ほかの地域にも行われていた。無住一円の『沙石集』「生類を神に供る不審の事」から、鎌倉時代には諏訪社のほかに宇都宮(二荒山神社)にも鹿と鳥が贄として捧げられたことが分かる。また、最近までは西宮神社、松尾大社、熊野大社、熱田神宮、阿蘇神社等にも形ばかりの御狩神事があった。しかし、仏教の浸透とともにしだいに動物の殺生や肉食が敬遠されるようになり、狩猟神事も少なくなっていたが、諏訪は別であった。こうして狩猟を司る諏訪明神は「肉食を許す神」として篤い信仰を集めるようになった。 鎌倉幕府が1212年(建暦2年)に守護・地頭の鷹狩を禁じた際、「信濃国諏方大明神御贄鷹」のみを除外し、その後さらに五月会と御射山祭の場合のみ許すといった指令を下したが、この禁止令は中々順守されなかった。むしろ、これを契機として諸国の武士が各地で諏訪神社を勧請し、その御贄鷹として「諏訪流鷹狩」を行った。また、何らかの理由で肉を食料とせざるを得ない人々(穀類が中々生産できない山間地に住む人々など)には上社の社家が頒布していた「鹿食免(かじきめん)」と「鹿食箸」と呼ばれる肉食の免罪符は人気があった。上社が毎年御師(諏訪神人)を派遣して、諸国を巡ってこれを配った。更に、殺生罪を取り除く「諏訪の勧文(かんもん)」と呼ばれる4句の偈は猟師の滅罪の唱文として拡まった。 業尽有情(ごうじんうじょう)(業尽の有情)雖放不生(すいほうふしょう)(放つといえども生きず)故宿人身(こしゅくじんしん)(故に人身に宿りて) 同証仏果(どうしょうぶっか)(同じく仏果を証せよ)
※この「狩猟・農耕の神として」の解説は、「タケミナカタ」の解説の一部です。
「狩猟・農耕の神として」を含む「タケミナカタ」の記事については、「タケミナカタ」の概要を参照ください。
- 狩猟・農耕の神としてのページへのリンク