物資混乱
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「マルコム・マクレーン」の記事における「物資混乱」の解説
1965年冬、アメリカ政府はベトナムへの緊急増派を開始する。これにより補給物資の混乱が始まる。ベトナムは南北に長く、1本しかない鉄道は機能しておらず、道路は舗装すらされていない上に分断され、大型船が接岸できる水深の深い港はサイゴン港1か所しかないため一隻が接岸すると他の大型船は沖合に停泊し、そこから艀に移し替える人海戦術が採られている。また、ダナンなど他の港も遠浅のため同様の措置がとられている。委託された民間企業が物資補給を支援しており、23,300名もの労働者が荷役作業に従事していたが、既に手一杯であり、12時間交代で休日返上での作業が行われていた。当時米軍は16種類もの補給方式を運用しており、現場では倉庫やトラックの奪い合いが発生する有様であった。到着貨物を管理するシステムは存在すらしておらず、これら理由により接岸した大型船の荷下ろしは滞り離岸できず、統括する海軍の軍事海上輸送司令部(MSTS)はオフィスさえない状態であった。桟橋は艀で溢れかえり、一隻空にするのに10日から30日程掛かっており、夏は台風が発生するため度々作業は中断された。大半の陸揚げ貨物は野ざらしとなり、南ベトナム軍による組織的窃盗行為も横行していたため、トラックによる貨物移動の際は武装した憲兵が警護のため同乗している。末期には陸揚げを諦め、船を倉庫代わりとして停泊させたため、物資輸送を行う船舶が足りない状況に陥っている。陸軍は戦況がひっ迫していることを理由に兵站に関与しようとせず、空軍は見て見ぬ振りを突き通した。 統合参謀本部が「プッシュ」式の補給方法を採用したことが悪化要因の一つであった。前線の要請に従った物資を送る方法が「プル」となり、兵員の規模に応じて必要となる量を予め決め定期的に送る方式が「プッシュ」となり初期段階において前線に素早く供給する方式としては最良となるが、日々刻々と変化する戦況には向いておらず、このため不要物資が溢れ返り必要物資が足りない状況が発生した。その後、物資補給センターを構築するためダナン港を拡張し、新港を建設する案が国防長官ロバート・マクナマラによって承認されるが、電気、ガス、水道などのインフラは一切無い場所で、軟弱地盤故に大型産業機械を設置するには不向きであったことから事態は一向に改善しなかった。船舶はフィリピンで待機する状況となり、物資が溢れる無秩序な状況をライフによって特集され、それを受け議員が視察し問題視したことで抜本的な改善計画が開始されている。 「物資輸送を必ず成功させる」とマクナラマを口説き落とした民間企業であるアラスカ・バージ社にMSTSが輸送依頼したことで改善の兆しが見られ始めた。そこで、マクナマラは海運業で最先端を行くマクレーンをワシントンに招致し現状説明をしている。その後、マクレーンは度々コンテナを使用した輸送案をワシントンで説いて回るが誰もが「必要ない」との認識であった。これに業を煮やしたマクレーンは海軍大将フランク・ベッソンに直訴することに成功。エンジニア2名と共にベトナムを視察したマクレーンはコンテナを使用すれば全て解決すると判断し、この結果を政府に進言している。政府は軍に対し民間企業のノウハウを導入しろと圧力を掛けるが、軍は始まったばかりのコンテナリゼーションが何なのかを理解できなかったため狼狽し、事態は一向に進展することはなかった。そんな中、シーランドの子会社「エクイップメント・レンタル」がサイゴンでのトラック輸送案件を受注する。コンテナとは一切関係なかったが、ここでの事業を足掛かりにMSTSに対しオークランド[要曖昧さ回避] - 沖縄間の輸送に関する契約をシーランドと契約することを進言。結果、シーランドとの契約が結ばれ、コンテナを使用した輸送が開始された。12日毎に到着する476個の35フィートコンテナを軽々と捌いたシーランドにMSTSは感服し、ベトナムとアメリカ本土間の輸送依頼を懇願しており、この事業に数社が名乗り上げるが最終的にシーランドが指名される結果となった。 アメリカ本土からコンテナ輸送が開始されるが、ベトナムにはクレーンが設置されていないため、フィリピンのスービック湾までの輸送に限定されている。MSTSは沖縄で見事なまでの手際を知っているため、ベトナムの荷役を統括する第一兵站司令部に対しクレーンを導入しろと強い口調で指示するが、第一兵站司令部はコンテナに乗り気では無く、実際にはクレーンの設置計画すらない状況であった。荷役の混乱は一旦は小康状態になったものの、1966年半ばになると再び貨物量が前年より55パーセントも増えたことで再発し、マクナラマの一声により突貫工事が開始されたことでカムラン湾はコンテナ港へと生まれ変わっている。これにより大型コンテナ船オークランド号が接岸できる様になり、一度で今までの10隻分となる貨物の陸揚げが開始され、港湾作業や輸送などコンテナに関わる全ての事業をシーランドが受注したことで荷役が整然としただけでなく、破損や盗難も大幅に減り、輸送コストまでも下がったことに軍は驚愕し「問題は全て解決された」と1967年の軍の記録に誇らしげに記述されている。米軍はその後の調査からコンテナリゼーションは単なる輸送手段では無く、ロジスティクス・システムであると結んでおり、軍が開発したコネックス・ボックスは廃止され、民間用20フィートコンテナを使用した兵站システムの構築が開始されている。ベトナムへの輸送は1968年と1969年はシーランド収益の40パーセントを占めている。
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