洲本占領と尼崎到着
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姫路を出発したのが6月9日であったことについては、それぞれの史料において一致している。9日朝、秀吉は浅野長吉(後の浅野長政)を留守居役として姫路に留め、残り全軍を率いて姫路城を進発した。この日は明石を経て、夜半には兵庫港(神戸市兵庫区)近くに野営した。また、別働隊を組織して明石海峡より淡路島東岸に進軍させ、明智方にまわる可能性のある菅達長(菅平右衛門)の守る洲本城(兵庫県洲本市)を攻撃した。菅氏は毛利氏に与力していたので、水軍による海上からの襲撃を警戒したものであった。洲本城は9日のうちに落城した。 秀吉は同時に、播磨・摂津国境付近に岩屋砦を普請している。これは、6月10日付の秀吉書状によれば明智光秀が久我(京都市伏見区)付近に着陣したと記されていることから、光秀が摂津・河内方面へ移動するのではないかと考えたため、国境付近を固めて急襲に備える必要に迫られたからと推定される。 当時、大坂に滞在中の神戸信孝が光秀軍に包囲されて自刃したという風評も流れていた。10日付けの秀吉書状には、6月11日までに兵庫または西宮(兵庫県西宮市)辺りまで行軍する予定であると記されている。実際には10日の段階で光秀は京の下鳥羽(京都市伏見区)におり、山崎周辺にも兵を派遣していた。この段階では、秀吉・光秀の双方が互いの真意を探りつつ、意図的に風評を流すことも含めた情報戦を展開していたのである。 秀吉軍は10日朝に明石を出発し、同日の夜には兵庫まで進んでいた。10日夜は兵庫で充分に休息し、翌6月11日朝に出発。摂津尼崎へ到着したのは、その日の夕刻であったろうと考えられる。尼崎東方には淀川が流れ、その対岸は大坂である。秀吉が亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、当時、尼崎東郊にあったとされる栖賢寺(廃寺)で自身の髻(もとどり)を切ったという逸話が残っている。秀吉は大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝および有岡城(兵庫県伊丹市)の城主池田恒興らに尼崎へ着陣したことを書面で伝えた。 この間、光秀は近江方面の攻略が一段落した9日、勅使下向の返礼と称して安土より上洛した。光秀入京の際には公家や町衆が群がって出迎えたといわれる。光秀は吉田兼見を通じて朝廷に銀子500枚、京都五山・大徳寺などを含めると700枚の銀子を献上、さらに上京・下京に対して地子銭免除の特典を発し、新たな天下人として振る舞った。 また光秀は、6月9日付で細川藤孝(幽斎)に対して再び書状を送り、味方してくれれば摂津一国と、希望とあれば但馬でも若狭でも藤孝父子に差し上げる、50日・100日の間に近国を平定し、その後は忠興や自分の嫡子明智光慶に政務を譲って引退すると約束した。しかし、藤孝はまたも中立の姿勢を貫いたが、藤田達生によれば、この間、遅くとも6月8日までに秀吉の使者が藤孝と接触していたとしている。藤孝は光秀からの要請に応じなかったが、山崎の戦いでは秀吉にも加勢しなかったにもかかわらず、7月11日付の書状においては秀吉は藤孝に対し、その全面的な協力に謝意を表し、今後の細川氏の処遇を請け合うことを神に誓う起請文を発している。 一方で大和には使者を送り筒井順慶に加勢を求めた。順慶は、6月2日の時点では上洛の途中であったが、本能寺の変報を聞いて引き返した。4日には兵を山城に出し、5日には一部を近江に進出させて光秀に協力したため、光秀への加担が確実なものと周囲には思われていたが、9日には居城の郡山城に退去して、籠城の覚悟を決めて米や塩を入れはじめた。態度をはっきりさせない順慶に対して光秀は、10日、宇治川・木津川を越えて男山(京都府八幡市)に近い洞ヶ峠(京都府八幡市・大阪府枚方市)まで出かけて圧力をかけたが手応えがなく、同日、順慶は山城に派遣していた兵も引き揚げてしまった。光秀は順慶への誘いを諦め、男山に伏せておいた兵力を撤収させ、洞ヶ峠を降りて下鳥羽に陣を敷いた。また、兵の一部と近在の農民を徴発して天王山の北に位置する淀城(京都市伏見区)を修築し、その西方の勝竜寺城(京都府長岡京市)にも兵を入れた。これは10日から11日にかけてのことと考えられる。 なお、秀吉は備中高松から姫路までの移動の迅速さに比べれば、姫路からの移動は、慎重さを伴い、着実な行軍に重点が置かれている。姫路までは、毛利方の追撃を免れるため何よりもスピードが重視されたのに対し、姫路からは光秀の放った伏兵などを警戒しながらの行軍であり、同時に同盟者を募り、情報戦を繰り広げながらの行軍だったのである。
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