死去直後の対応と反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:42 UTC 版)
談志死去の報は、最期まで談志の世話をしていた立川談吉 を除き、一門の弟子たちを含む落語界・芸能界・知人の誰にも伝えられなかった。家族および談吉のみで通夜・告別式(密葬)を挙行し、11月23日に落合斎場にて荼毘に付される。 家族は2日の間、談志の死を一門を含む誰からも隠し通した。談志が生前に「人に知らせるな。骨は海に沈めろ」と語っており、近親者が本人の意思を守ろうとしたためであるが、情報が正式に公表されるまでの間、関係者やマスコミなどを巻き込んだ騒動のもとにもなった。 23日に所属事務所である談志役場(息子・慎太郎の会社)が死の事実をプレスリリースしたが、その際も弟子たちに知らせなかった。立川キウイ や立川談慶 ら弟子たちは、死の2日後にテレビニュースなどで談志の死を知ることとなる。このため、マスコミやファンの問い合わせを受けて「(自分は聞いていないので)ガセだろう」と回答してしまい、あとで訂正するはめになった弟子たちが複数出た。 一方、死の直後からTwitterやWikipediaなどに情報のリークがあり、落合斎場にも到着時には報道陣が集まっていた。しかし、談吉は自身のブログやTwitterで談志と無関係の話題を記述し、情報が漏れないようにつとめた。火葬が始まった時点で携帯電話が鳴り出し情報を隠し切れないと判断した遺族は関係者に連絡、談志の死去を報告している。 23日夜に長男・松岡慎太郎と長女・松岡弓子がホテルニューオータニで記者会見を行い、死去に至るまでの経緯を説明した。 死去公表直後、弟子でマスコミの囲み取材を受けたのは立川志の輔、立川談笑。談笑は24日に「情報プレゼンター とくダネ!」 に、立川談四楼は25日に「情報ライブ ミヤネ屋」に出演している。談志死去の報道を受け、行きどころのない弟子は談志行きつけの銀座のバーに集まり、故人を偲びつつ盛り上がった。 談志の死去を受けて、23日、8代目橘家圓蔵と林家木久扇が日本テレビのニュース番組『news every.』に生出演し、談志との想い出を語った。また、日本テレビ『金曜夜席』当時からの友人である桂歌丸、上方落語界長老の3代目桂米朝も逝去を悼むコメントを発表した。弟弟子で落語協会会長(当時)の柳家小三治は「とんでもない人物だった。今でも兄弟弟子という思いは強い」と語り、兄弟子の死を悼んだ。また、談志に憧れて落語家の道を志した上方落語協会会長(当時)の桂三枝(現:6代桂文枝)も談志の訃報が公表された日の緊急会見で「嘘であって欲しいと思いました」と泣き崩れながら談志を偲んだ。 晩年の談志の高座を地方公演まで追いかけて聴いていた堀井憲一郎は、活字媒体のみならず、死去公表直後のTBSラジオ「ニュース探究ラジオ Dig」やNHKテレビ「視点・論点」(2011年12月29日「談志死して"落語"を残す」)などで追悼と解説をしている。 報道各紙による訃報の見出しは「談志が死んだ」であった。生前、談志は「上から読んでも下から読んでも、『談志が死んだ!』と書いてくれ」と言っていた(本人他一門の書いた文章を集めた『談志が死んだ: 立川流はだれが継ぐ』(2003年、ISBN 4062121859)という本もあった)。また、同年に死去したウサーマ・ビン・ラーディン、ムアンマル・アル=カッザーフィー、金正日と合わせ、「2011年は独裁者が死ぬ年」と言われた。 マスメディアでの報道とは対照的に、死去に対する落語家界隈、特に落語協会内での反応は冷淡なものであったと三遊亭圓丈は評している。これは、談志は前述のように晩年落語をほとんど演じておらず、「談志は過去の人」という認識が強かったためだという。 葬儀の際、談志が生前かわいがっていたライオンのぬいぐるみ「ライ坊」が談志とともに荼毘に付されたという情報が流れた。このため、ライ坊が原因で破門騒動に巻き込まれた立川志らくは、24日放送の『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』にて大いに嘆き、高田文夫が大笑いする一幕があった。しかし、その後談吉が明かしたところによると、荼毘に付されたのは別のクマのぬいぐるみであり、ライ坊は無事だった。 死去から一か月後の12月21日、ホテルニューオータニで「お別れの会」が開かれ、関係者約1000人、ファン3000人が参列した。 墓所は文京区向丘の浄心寺本郷さくら霊園で、墓石の正面には談志の筆による「立川談志」の名が、側面には生前自ら考えた戒名「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」が刻まれている。生前から公開していた戒名が原因で受け入れてくれるお寺が見つからなかったといい、納骨が行われたのは2012年12月2日だった。生前からの希望により遺骨の一部が海に散骨されたが、直後に魚が集まってきて撒かれた遺骨を食べてしまったという。長女の松岡ゆみこは、談志が生前埋葬を希望していなかったことを受け、遺骨の一部を手元で保管している。
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