東ローマ帝国の都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 19:57 UTC 版)
「ビザンティン建築」の記事における「東ローマ帝国の都市」の解説
東ローマ帝国の多くの都市は、ローマ帝国の時代から継承されたものである。ローマ帝国の混乱によって、3世紀後半から4世紀にかけてローマ時代の都市は広範囲に衰退したが、5世紀から6世紀になると東ローマ帝国の勢力範囲内では経済が再生し、これに伴って建築活動も盛んになった。交易の活性化は、南イタリアからバルカン半島沿岸部、コンスタンティノポリスからアナトリア半島沿岸部、シリア一帯で見られるが、東ローマ帝国とサーサーン朝の衝突や異民族の侵入などによって安定せず、大局的には地方都市は徐々に衰退していったといってよい。このような地方経済の低下は、地方都市の公共業務の担い手であった裕福市民層の減衰を招いた。中央政府の介入が増大したため、公共活動は中央官庁の官僚組織、あるいは教会組織に継承されたが、フォルムやクリアなどの大規模な公共建築物は東ローマ帝国時代には建設されなくなった。 都市生活自体もローマ帝国の時代から変化しており、体育館や競技場の利用は著しく低下した。劇場は競技場よりは活用されたが、上演されるのは喜劇や卑猥な演目になったため、教会からたびたび禁止令が出され、やがて放棄されていった。ローマ都市の中心部にあった神殿は、キリスト教が国教になったために廃れ、392年にテオドシウス1世が異教崇拝の禁止を発したあと、廃棄されるか破壊された。 このような変化に伴って、古代に建設された公共建築には徐々に住居が建て込まれるようになり、人口密度は高くなったが、公共スペースの喪失によって市街地は縮小した。異教の神殿は6世紀ごろにキリスト教聖堂として使用されるようになったアテナイのパルテノン神殿やテッサロニキのロトンダ、ローマのパンテオンなどを除いて、石切り場、あるいは柱や彫刻などの転用材の集積場となった。 このような古代都市に比べ、東ローマ帝国の時代に新設された都市、あるいは古代の町村を拡張した都市は少ない。また、首都コンスタンティノポリスを除けば、東ローマ帝国時代の都市は、古代ローマ時代の都市よりもずっと小規模である。ほとんどがユスティニアヌス帝によって開都されたが、ユスティアナ・プリマ、セルギオポリス、ダラ、ゼノビア(現・ハラビエ)といった新設都市は、国境防衛のための軍事拠点であった。一般に、強固な城壁に囲まれた場所には兵舎が建設され、ローマの都市と同じくカルドとデクマヌスを軸とする規則正しい都市計画が採用されている。一般市民はその外側に生活の場をおく農民で、緊急時には城壁内に避難する生活であった。 東ローマ帝国は6世紀に衰退を始め、都市部の経済活動も完全に停滞した。サーサーン朝ペルシャとの戦乱に巻き込まれたシリアからアナトリア半島の都市は壊滅状態のまま国家統制から排除され、イスラム帝国が勃興してからはシリア、エジプトの海上拠点も制圧された。バルカン半島は北方からの侵入したブルガリア人とマジャール人に悩まされただけでなく、沿岸地域からはイスラム帝国に攻撃された。貿易は完全に停止し、地中海貿易によって成り立っていた古代都市は、略奪され、あるいは経済的停滞によって完全に衰退・放棄された。特に北方から来襲したスラブ人の勢力下に置かれたバルカン半島の都市は10世紀まで荒廃した状態にあり、住居は粗悪なものであったため、建物の平面ですら確認するのが困難である。このような緊張状態にあって、ローマ時代から続く都市も完全に要塞化し、城壁に囲まれた軍事拠点とそれを取り囲む一般住宅という中世都市のスタイルが一般化した。 このような東ローマ帝国の中世都市の雰囲気をよく残しているのが、ペロポネソス半島のモネンヴァシアや、ギョーム2世ヴィルアルドゥアンによって建設されたミストラである。ミストラは完全に中世のものではなく、また、ノルマン人によって建設されたものではあるが、末期東ローマ帝国の都市を知るうえで重要な手掛かりとなる。町は高低差240メートルの急斜面にあり、はっきりした街路計画も中心部もない。貴族も庶民もつましい生活を送っていたらしく、住居は大きな居間が1つで、独立した部屋はなく、食事や睡眠、排泄もそこで行われていた。
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