朝鮮人と連合軍捕虜の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
「大嶺炭田」の記事における「朝鮮人と連合軍捕虜の問題」の解説
大嶺炭田では海軍練炭製造所採炭部時代の1908年(明治41年)、炭鉱経営を請け負っていた内田鼎が、土地の埋め立て工事に朝鮮人を雇用したとの記録が残っている。1939年(昭和14年)から朝鮮人の雇用を本格化させた山陽無煙炭鉱は専用の寮を建て、朝鮮人は寮に住みながら炭鉱労働に従事した。最初の頃は朝鮮人たちはよく働いたため、2年目からは家族の呼び寄せを認め、家族がある朝鮮人は社宅住まいとなった。炭鉱労働者の中で朝鮮人の占める割合が高くなってくると、たちの悪い人物も現れるようになった。そして内地にも慣れ、人数が増えたことによって朝鮮人団体の力が強くなった結果、日本人との間にいざこざが頻発した。寮や社宅、坑内の管理者は朝鮮人の対応に苦慮するようになった。 1943年(昭和18年)8月15日には桃ノ木朝鮮人事件という朝鮮人と日本人との衝突が発生した。事件の発端は食堂での日本人と朝鮮人との些細な喧嘩であった。しかし喧嘩の当事者である朝鮮人に5、6名の朝鮮人が加勢してきたため、当事者である日本人は出刃包丁で応戦したものの、どんどん増えてくる朝鮮人たちに集団リンチにかけられた。事件を聞いた会社側は説得に赴いたものの、朝鮮人の集団に袋叩きにされてしまった。やがて日本人側も人が集まってきて、ついに朝鮮人と日本人との間で棒、竹やり、石を投げあう本格的な衝突へと発展し、双方に負傷者が出る騒ぎになった。結局伊佐、西市の警察が鎮圧に乗り出し衝突は治まった。このようなトラブルは当時日本各地の鉱山、炭鉱で発生していた。事件を調査する検察庁は対応に苦慮し、山陽無煙炭鉱の責任者も3か月間未決囚として収監されたという。また事件後、山陽無煙炭鉱は朝鮮人の労務管理方針の改善に乗り出した。朝鮮人を採用する際には受け入れ予定の寮と坑内の責任者が朝鮮の現地まで出迎えに行き、寮に入った後1か月間を研修期間に充て、寮と坑内の責任者も寮に泊まり込んで研修を行うようにした。このような対策が功を奏したためか、桃ノ木朝鮮人事件以降、終戦まで朝鮮人と日本人との衝突事件は発生せず、終戦後の朝鮮半島帰還も大きなトラブルは発生せずにスムーズに行われた。 大嶺捕虜収容所は現役の陸軍士官が所長、副官は下士官が務めた。山口市の西部第4部隊から月替わりで2分隊が派遣され、収容所内の警備を担当した。収容所から仕事場である坑口までは、軍属として傷病等で退役した退役軍人が引率した。石炭の採炭目標は日本人、朝鮮人坑夫の約8割とされていて、坑内では熟練した日本人の坑夫が石炭の切り崩しなどを行い、捕虜たちは切り崩された石炭を掻き出して炭車に積み込む作業、あとは坑木の搬入など坑内の補助作業を行った。 捕虜たちの主食は約600グラムと兵隊や炭鉱労働者と同様の基準であった。捕虜収容所は食事は提供せず、食材を提供して捕虜たちが調理していた。当初は捕虜の炊事責任者が立てた献立表通りの食材が用意できたが、戦況の悪化につれて物資不足が深刻となり、思うように食材が集まらないようになった。しかしイギリス兵捕虜は特に不平を漏らすことはなく、礼儀正しく問題は起きなかったという。しかしアメリカ兵がやって来ると、中には質の悪い捕虜もいて、戦況の悪化につれて捕虜の扱い方が荒くなってきたこともあって、アメリカ兵捕虜との間ではトラブルが発生するようになった。この捕虜収容所内でのアメリカ兵捕虜のトラブルは、戦後、収容所関係者が戦犯に問われることにつながった。なお、大嶺捕虜収容所では病気などで31名の捕虜が亡くなったという。
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