明和・安永年間の状況
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1761年(宝暦11年)4月、財政に端を発した亀田藩の内部対立が表面化して亀田藩士秋田退散事件が発生する。同事件では久保田藩が調停・介入をしたものの、亀田藩は1770年(明和7年)にその調停を完全に無視する形で、首謀者3人の蟄居と一門格の剥奪の処分を行った。その間の10年にわたる交渉は、両藩の溝を一層深める結果となった。 1770年1月の四度目の下り船への課税通知は、このような背景で打ち出された。久保田藩側が春に役人を船に乗せてこの地区を通そうとしたところ、川岸に亀田藩士が出て法螺貝を吹き、大勢が打ち寄せて弓矢や鉄砲、長刀などを持ち出しているという状態で、強行突破は極めて困難であった。しかも、亀田藩の税は「米3斗につき3分、木綿120反につき8分」などきわめて高かった。 久保田藩も抗議だけでは済まされないことを分かっていて、早速対策の検討を始めた。運河の掘削についてはおよそのべ25万人の人足では完成できず、16間ほどを掘らなければならない所もあり、百万人ほどが必要だとする報告書が2月23日に上がり、その報告に基づいて24日に惣評議が行われ、合判(城用の米穀)通船は税を取らないという亀田側の申し入れを利用し、川下げの米を全て城米扱いにして、米以外はさしあたり陸付けするしかないということになった。このため、陸付けの工事費として2貫目の見積もりを立てて、手配を行った。雄物川の支流、淀川が本流に合流するあたりで下り船から荷を陸揚げし、向野村の北を経て30町(約3.2km)弱を馬で運び、左手子村で再び空船に積み込んで川下げするものであった。このため、春収穫分の50万俵、秋収穫分の10万俵について、馬250匹、1日4度の計5千俵ずつ運搬する計画をたてた。近在から馬が集められ、馬による運送の賃金や、陸付けの運賃も決められた。米1俵につき10文の駄賃で請負である。小種・左手子両村に仮の蔵、仮の厩、足軽番所、役所を新設し、古仮蔵の手入れなどのため364貫を支出した。 陸付けは4月19日から始まった。当初250匹を準備する予定だった馬が500匹程度用意できるなど人馬共に集まり、始めは米と雑穀を1日に1万俵平均で運搬していた。しかし、4月19日から5月29日まででは16万俵の運搬にとどまり(駄賃は2500貫程度)であって、1日平均は4千俵となり春収穫分の50万俵を輸送するには4か月近くの日数を必要とした。しかも輸送中、1俵につき5-6升の割合で減米が発生した。このため運河案も検討されていて、20町余りの距離を川幅10間、深さ2丈5尺で開削するにあたり、人足が18万人・5貫目が必要だという注進の記録もあった。 久保田藩も困り抜いたが、亀田藩も当てにした税収がこの有様では元も子もない状態であった。5月19日に亀田藩の役人が土崎湊の問屋に「来年は5百両を納めれば、今後は下り舟は無税にする」と持ちかけたが、その後は表沙汰にはならなかった。7月12日には、久保田藩は江戸で岩城隆恭に下り船の徴税の撤回を申し込むなどしたが、対峙の形勢は変わらず、秋の収穫の時期は迫っていた。そこで久保田藩は「御家中ならびに仙北三郡の数百ヶ村の百姓共に甚だ迷惑」ということで8月14日に重ねて回答を求め、24日にはついに幕府への提訴と、落着までの無税通過を家老塩谷久綱を通じて宣告した。これに対して亀田藩は「当時は領地内の危機だったのでそうなった。ひとまず落ち着くまで言う通りにする」として譲歩せざるを得なかったが「なおまた当方で取り調べて、何度も掛け合うべきだろう」と幕府への提訴以前の交渉を提案し、ひとまず当面の危機を回避し、9月11日から無税での通船となった。 問題は好転するかに思われたが、10月29日に亀田藩は再び課税を通告し、「今回の交渉ははなはだ不本意だが、領内の不熟続きとたびたびの公務によって、非常の差し支えとなり領内の必要な手当も難しくなったので、大正寺における課税再興を承知して欲しい。なお、城米の無課税は従来と同じである。このようなことは、諸藩に渡ることで、大正寺に限ったことではない。久保田藩も所々に役所を建て、同じようなことをしているではないか。陸送が難儀なのは我々が関係したことではない」と極めて強硬な態度を示した。この後は課税が強行されたかは明らかではないが、折衝は繰り返されるもののいずれも水掛け論に終わった。課税は1772年(安永元年)2月7日から再開された。しかも、今回は課税額を久保田藩の陸付け運賃より下げて米の場合1俵あたり4文の税とした。陸運では1俵あたり15文で、かつ5-6升の減米が生ずる点と、運送の渋滞から陸送は実施が困難になった。このため、久保田藩では数度の評議の結果、米1俵についての荷主の負担を1俵あたり2文として差額分は藩の負担とし、船頭への船借代米の1割方の合力米を与え、馬不足の場合は手当を支給するなどの応急措置を採り、陸送を強行するとともに、勘定奉行や公事方担当の幕府関係者への意図打診を開始した。4月19日、関係者の意図を確認した久保田藩は問題の処理を幕府の裁定に求めることに踏み切った。
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