明和の法論とは? わかりやすく解説

明和の法論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/09 02:47 UTC 版)

明和の法論(めいわのほうろん)は、江戸時代中期の明和年間に浄土真宗本願寺派にて発生した法論(教義論争)。当時の西本願寺学林で正統視されていた、浄土真宗の本尊にまつわる学説をめぐり、播磨の学僧・智暹と学林との間で意見が戦わされた。

概要

播磨・真浄寺の智暹が1764年(明和元年)に『浄土真宗本尊義』を著し、西本願寺学林で権威とされていた第4代能化・法霖の学説を批判した。法霖は、浄土真宗の本尊を『観無量寿経』に見える立像としていたが、これに対して智暹は『無量寿経』の本尊とすべきであると主張し、また法霖の教えを「一益法門」の異端であると批判した。

智暹の説に学林は反発し、『浄土真宗本尊義』の絶版を本山に要求して紛争となった。1767年(明和4年)、第5代能化・義教を審判として、功存ら学林側と智暹との討論が2度行われたが決着せず、翌1768年(明和5年)には義教と智暹とが死去する。最終的に第17世門主法如の裁定により学林側の勝利となり、義教の死後に功存が第6代能化となる[1][2]

関連項目

脚注


明和の法論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/15 08:28 UTC 版)

功存」の記事における「明和の法論」の解説

明和の法論で功存智洞と共に学林派を代表して智暹本尊論について論争し勝利を収める1769年明和6年)、西本願寺6代能化就任し1796年10月23日寛政8年9月23日)、77歳死去した

※この「明和の法論」の解説は、「功存」の解説の一部です。
「明和の法論」を含む「功存」の記事については、「功存」の概要を参照ください。

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