三業惑乱
三業惑乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/15 08:28 UTC 版)
しかし功存の死後、第7代能化に就任した智洞が『願生帰命弁』を三業帰命説の根拠としたために三業惑乱が惹起し、最終的には江戸幕府寺社奉行の裁定により、同書もまた異安心に認定されるという皮肉な結果を招いた。
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三業惑乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/15 09:38 UTC 版)
1796年(寛政8年)、西本願寺の第7代能化職に就任し、前任の功存が著した『願生帰命弁』を元に三業帰命説(三業安心説、新義)を受け継ぎ広める。 しかしこの説に不審を抱いた安芸の大瀛、河内の道隠など在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)を批判した。これは単なる教義論争に止まらず、各地の門徒を巻き込み、流血の大紛争に発展した(三業惑乱)。門主をはじめとする宗門は事態を収拾できず、江戸幕府の京都所司代や寺社奉行が介入するところとなり、1803年(享和3年)4月、京都所司代の命により、二条城で智洞は大瀛・道隠と討論し、同年5月、京都所司代は智洞ら関係者40人を入牢させた。翌1804年(文化元年)1月には江戸に移送され、寺社奉行の取り調べを受けたが、智洞はこのとき罪人として鶤鶏籠に入れられ江戸へ護送されている。5月、論敵の大瀛が獄死する。智洞は1805年(文化2年)4月26日に回心状を提出するが、同年10月22日、八丈島遠流の刑が決まっていた彼は、行刑前に江戸の獄中にて70歳で死去した。 1806年(文化3年)、寺社奉行・脇坂安董は三業帰命説を異安心(異端)と審判し、西本願寺門主の本如もこれを追認して事態は収拾した。西本願寺は教学のトップで門主以上の権力を持っていた能化職を1807年(文化4年)に廃止し、1824年(文政7年)に任期1年の勧学職を置いた。
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三業惑乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/09 15:23 UTC 版)
西本願寺では、江戸中期の法如宗主時代から宗門の安心(あんじん)をめぐる教義対立が燻っていたが、本如の時代には地方の不満が頂点に達し、本山まで直談判に赴く門徒衆のために京都市中も不穏な状況にあった。この時点で学林派(三業派・新義派)の「三業帰命説」は安芸の大瀛らによって論破されていたが、越前・越中を中心とした三業派支持の影響は強く、一大権力を築いていた能化職自体が誤りを認めることはなかった。 本如は22歳の若さで宗主継職したこともあり、7代能化職の智洞(寛政9年就任)を頂点とする学林派に対して無力に近かった。本如自身も混乱回避のため様々な手段を尽くそうとするが、学林の暴走を止めることはできず、やむを得ず江戸幕府の介入を頼むこととなった。 享和3年(1803年)、幕府は京都所司代に二条城にて大瀛・道隠と智洞に法論を行わせて、文化元年(1804年)には江戸に両派を召喚し、寺社奉行所で討論させている。この時裁定に当たった寺社奉行の龍野藩主脇坂安董は、この一件の手腕が認められ、後に老中職にまでなった。 幕府は一連の裁定を終え、文化3年(1806年)、本如筆の「御裁断御書」において三業帰命の誤りを明示し、これを宗意安心の基準として、両派関係者への処罰を下した。本願寺には100日間の閉門が下された。 この一件により宗主以上の権力を持った能化職は廃止され、後に任期1年更新の勧学職を置いた。また、予定されていた御影堂大修復もこの問題により着工が遅れた。
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三業惑乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 21:56 UTC 版)
新義派の智洞が西本願寺能化となると、河内の道隠らとともに古義派を代表してこれを批判し、智洞の講義に対する反論として16項目からなる『十六問尋』を作成して学林側の新義派に回答を求めた。この教義論争は各地の門信徒を巻き込んで流血の事態となり、いわゆる三業惑乱の大紛争に発展するが宗門内部では事態を収拾できず、江戸幕府の介入を招く。そうした状況の中、大瀛は1803年(享和3年)には二条城にて、また翌1804年(享和4年)には江戸の寺社奉行所にて道隠とともに対論し、智洞を論破した。しかし、同年5月に築地の成勝寺にて46歳で没した。 大瀛の死後、1806年(文化3年)に寺社奉行の脇坂安董は「三業安心説」を異端(異安心)であるとする審判を下し、同年、本願寺門主の本如も「御裁断の御書」でそれを追認したことで、大瀛らの主張が認められることとなった。
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