真宗学の研究と教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 16:02 UTC 版)
江戸時代になると、東西本願寺がそれぞれ学寮や学林を設け、学生を寄宿させて真宗学を学ばせた。西本願寺の学寮の学長に当たる能化は宗門の教学の最高権威として力を持ったが、三業惑乱により権威を喪い、能化職は廃止される。 一方、地方においては越中国氷見の伸尺堂や浦山(黒部市)の空華廬などあるいは広島城下に慧雲の設けた甘露社などの私塾が全国的に勃興し、その実力は三業惑乱に見られるように、学林を凌ぐ力を持った。(三業惑乱で能化・智洞に一歩も引けを取らず、論戦した大瀛は広島甘露社の出身、また同じく河内国道隠は空華廬の出身である。) 明治維新以降になると、東西本願寺は学寮、学林に西洋式の大学制度を取り入れ、現在の龍谷大学や大谷大学に至っている。 一方で、たとえば清沢満之の浩々洞のように多くの人材を輩出した私塾もあった。
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