深励とは? わかりやすく解説

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じんれい 【深励】

江戸中期真宗大谷派学僧。号は亀洲・垂天社。院号香月院。越前の人。著書多数。(一七四九一八一七

深励

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/06 09:16 UTC 版)

深励
1749年 - 1817年
寛延2年9月3日 - 文化14年7月8日
子勗
亀洲
院号 香月院
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
寺院 金津永臨寺
慧琳、随慧、智道
弟子 徳龍、賢蔵、霊暀、慧劍、智現、法竜、了祥、順芸、澄玄、秀存
著作 『歎異抄講義』『教行信証講義』など
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深励(じんれい、1749年10月13日寛延2年9月3日) - 1817年8月20日文化14年7月8日))、は江戸時代浄土真宗香月院深励(こうがついんじんれい)と称されることが多い。真宗大谷派に属し、東本願寺宗学を大成した[1]は子勗(しきょく)。は亀洲など、院号は香月院。

概要

越前国大行寺(現・福井県福井市)に生まれる。1756年宝暦6年)に寿天の養子となり、同国金津永臨寺(現・福井県あわら市)の住職となる。

京都高倉学寮で大谷派の慧琳や随慧に師事。また真言宗豊山派の智道や仁和寺真言宗御室派)の竜山などに倶舎唯識などの仏教学を学ぶ[2]

1791年寛政3年)に東本願寺高倉学寮の擬講、1793年(寛政5年)に嗣講、1794年(寛政6年)に第5代の講師となる。1809年(文化6年)には一度講師職を解かれるが、1811年(文化8年)にふたたび講師に復帰、第6代講師の円乗院宣明と共に、東本願寺の宗学を支える。各地で講義を開き、『垂天結社簿』によれば門下は1249人[3]、もしくは1264人をかぞえる[4]

住田智見によれば、深励の講師就任から霊暀の没するまでが東本願寺の宗学の全盛期であるという[5]。あるいは、深励の学派が正統な学派であり、それを軌轍とし、一轍の宗学とされた時代もある[2]。本願寺派の道隠とも関係をもち[6]三業惑乱にも間接的に関わった。

著書

  • 『歎異抄講義』
  • 『教行信証講義』
  • 法蔵館より『香月院深励著作集』(全7巻)が出版されている。

注釈

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
  2. ^ a b 廣瀬南雄「香月院を中心として」『大谷学報』第9巻第3号、1928年、54 - 92頁、ISSN 0287-6027 
  3. ^ 柏原祐泉. “深励”. Japanknowledge. 国史大辞典. 2022年2月8日閲覧。
  4. ^ 松金直美「近世真宗東派における仏教知の展開 : 正統教学確立と異安心事件をめぐって」『真宗文化 : 真宗文化研究所年報』第22巻、2013年、110頁、 ISSN 13431153NAID 110009575667 
  5. ^ 住田智見『大谷派学事史』真宗典籍刊行会、Tōkyō〈続真宗大系〉、1936年、24-167頁。 ISBN 4-336-03642-XOCLC 42910275 
  6. ^ 加藤基樹「大谷大学図書館蔵『香月院深励関係書籍目録』と香月院深励をめぐる歴史的研究課題の覚書」『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』第24号、2007年、178頁、 ISSN 1343-2753 


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