旧藩債務の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 05:21 UTC 版)
廃藩置県により、旧藩の債務および家禄は全て新政府の責任となった。 既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじてしのいでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが、黒船来航以来の政治的緊張と戊辰戦争への出兵によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出て実際に解体される藩が狭山藩、大溝藩、鞠山藩、吉井藩、盛岡藩、長岡藩、福本藩、高須藩など続出する状況であった。また、幕末維新期には多くの藩で貨幣の贋造が行われ、外交問題に発展していた。 これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった。 藩札の合計は3909万円、(藩札を除く)藩債の合計は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達していた。 新政府は藩債を3種類に分割した。すなわち、 明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債) 弘化年間(1844年〜1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債) そして天保年間以前の債務については江戸幕府が天保14年(1843年)に棄捐令(無利子年賦返済令)を発令したことを口実に一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令) というものであった。 藩札は、廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。藩債のうち外交問題になりえる外債は、全て現金で償還された。藩以外の旗本・御家人などの債務は償還対象外とされた。朝敵となった江戸幕府による債務は発生時期を問わずに、外国債分を除いて全て無効とされた。また、維新後に新立あるいは再立が認められた朝敵藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた。 その結果、届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。新公債は、西南戦争の年を除けば毎年償還され、1896年までに予定通り全額が償還された。旧公債も、予定通り1921年に償還を完了した。 藩債の大半は天保以前からの大名貸しが繰り延べられて来たものであり、ことごとく無効とされた。例えば有名な薩摩藩の調所広郷による「無利子250年分割払い」は35年間の支払いを以って無効とされた。 一般に江戸時代の金利は高く、例えば薩摩藩の250年分割以前の平均金利は16%に達していた。貸し手の商人達から見れば大名貸は元金返済の見込みは薄い一種の不良債権であったが、名目上は資産として認められ、金利収入は大きく、社会的な地位ともなりえたが、この処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。幕臣相手の債権を所有していた札差は瓦解した。 大名貸し商人の多かった大阪(大坂から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となった。ただし、大阪商人の苦境には、幕末以来の銀の価値低下により、銀本位制に傾いていた大阪における銀資産の価値低下も影響している。 一方で、旧藩主やその家臣は全ての債務を免責された上、中には廃藩直前に藩札を増刷し債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。
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