旧藩主の典医として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:56 UTC 版)
明治14年(1881年)同校を辞して翌明治15年(1882年)東京に戻り、旧土佐藩主・山内豊範侯爵の主治医となった。この時、豊範の子山内豊景が病を得ており、他の医師がこれを治療できず生命の危機にあったところ、三圭によって快復を果たした。豊範は感謝して報酬を申し出たが、三圭はこれを再三固辞し「自分は豊範侯のおかげで学問の一端を修めることができたが、いまだその道半ばである。もし今回のことで報酬を受けられるのであれば、学問を最後まで全うしたい」と申し出、豊範もこれを許した。
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