旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代
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「愛知県立旭丘高等学校」の記事における「旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代」の解説
1870年(明治3年)6月 - 名古屋藩立「洋学校」が七間町に開設される。英仏語学の教授所として設立され、横瀬文彦、英人アレキサンドル・インギリス、林正十郎、仏人P.J.ムーリエらが教師に就任。当時の生徒に加藤高明、二葉亭四迷がいた。 1872年(明治5年)- 廃藩置県により、「愛知県洋学校」と改称。 1873年(明治6年)- 「成美学校」と改称。 1874年(明治7年)9月 - 成美学校が廃止され、官立(国立)「愛知外国語学校」が設置される。後に「愛知英語学校」に改称。 1877年(明治10年)2月国の財政難により、愛知英語学校が廃止される。 愛知県はその校舎と設備を文部省から移管され、(県立)「愛知県中学校」を設置。 1878年(明治11年)10月 - 南外堀校舎(現・中区)に移転。 1886年(明治19年)9月 - 中学校令の施行により、「愛知県尋常中学校」と改称。 1896年(明治29年)4月1日 - 尋常中学校(愛知県第二尋常中学校。現・岡崎高校)の新設により、「愛知県第一尋常中学校」と改称。 1899年(明治32年)4月1日 - 中学校令の改正により、「愛知県第一中学校」と改称(「尋常」が除かれる)。 1901年(明治34年)8月 - 「愛知県立第一中学校」と改称(県の後に「立」が加えられる)。 1904年(明治37年)- 校歌を制定。作詞は当時の校長・日比野寛によるもの。日本で最初の校歌であると言われている。 1908年(明治41年)9月 - 西二葉町校舎(現・東区)に移転。 1917年(大正6年)8月 - 野球部、第3回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会の前身)で優勝。 1922年(大正11年)5月 - 「愛知県第一中学校」(再)と改称(「立」が除かれる)。 1938年(昭和13年)7月 - 新出来町校舎(現在地)に移転。 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令により、この時の入学生から修業年限が5年から4年に短縮される。 4月 - 戦時体育編成により新学期から野球、庭球、排球の各部を解散。武装訓練が行われる。 7月 - 愛知一中予科練総決起事件が発生(後述。#エピソードを参照。) 1945年(昭和20年)3月 - 5年生(1940年(昭和15年)入学生)と4年生(1941年(昭和16年)入学生)の合同卒業式を挙行。教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限短縮の前倒しが決定し、1941年(昭和16年)以降の入学生にも修業年限4年が適用されたため。 4月1日 - 戦時教育令により、1945年度(昭和20年度)1年間の授業が停止される。ただし勤労動員は継続。 9月 - 終戦後、教育ニ関スル戦時非常措置方策・戦時教育令等が廃止され、授業が再開される。 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻る。 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。旧制中学校の生徒募集を停止(1年生不在)。 新制中学校を併設し(名称:愛知県第一中学校併設中学校、以下:併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。 旧制中学校3・4年修了者はそのまま旧制中学校に在籍し、4・5年生となった(4年修了時点で卒業することもできた)。 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、旧制中学校は廃止され、新制高等学校「愛知県立第一高等学校」(男子校)が発足。全日制普通課程(全日制課程 普通科)に加え、通信教育部普通課程(通信制課程 普通科)と昼間定時制普通課程(定時制課程 普通科 (昼間))を設置。 旧制中学卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学4年修了者を新制高校2年生、併設中学卒業生(3年修了者)を新制高校1年として収容。 併設中学校は新制高校に継承され(名称:愛知県立第一高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
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旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代
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「岡山県立矢掛高等学校」の記事における「旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代」の解説
1901年(明治34年) - 7月、設置が認可される。 1902年(明治35年)4月1日、「岡山県立矢掛中学校」が開校。 5月、開校式を挙行。 1920年(大正9年)4月1日 - 「岡山県矢掛中学校」と改称(「立」が除かれる)。 1947年(昭和22年) - 4月1日、学制改革(六・三制の実施)により、新制の中学校を併設(以下・併設中学校)。 1948年(昭和23年) - 4月1日、学制改革(六・三・三制の実施)により、旧制中学校は廃止され、新制高等学校「岡山県立矢掛第一高等学校」(男子校)が発足。 1949年(昭和24年) - 3月31日、最後の卒業生を送り出し、併設中学校を廃止。
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旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代
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「愛知県立刈谷高等学校」の記事における「旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代」の解説
1918年(大正7年)11月 - 中学校の設立が認可される。 1919年(大正8年)4月 - 愛知県立第八中学校として開校。 1922年(大正11年)5月1日 - 愛知県刈谷中学校に改称。 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により旧制中学校が廃止され、新制高等学校愛知県立刈谷南高等学校(男子校)が発足。
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