新大陸への植民とは? わかりやすく解説

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新大陸への植民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:17 UTC 版)

植民地主義」の記事における「新大陸への植民」の解説

いわゆる植民地主義的国境外の遠隔地への植民地の拡大は、大航海時代スペイン・ポルトガル両国植民征服活動をもって嚆矢とし、のちにヨーロッパ諸国列強各国によって世界中で行われた1492年クリストファー・コロンブス新大陸到達すると、スペイン即座に到達した地域植民地化進めていった。これに対し1498年ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰回りインドへと到達したポルトガルも、航路周辺の都市次々と攻略し植民地化ていった。すでに1494年にはトルデシリャス条約結ばれており、現代で言う西経4637分の線を境界として西がスペイン、東がポルトガル領域とされたため、両国はこれに従い東西次々と植民地化ていった。ただしこの線は新大陸アフリカとの領域確定という意味で設定されたものであったが、新大陸で最も東に張り出しているブラジル東部はこの線の東側位置することになったため、ポルトガルはこの地域植民行い南アメリカ大陸唯一ブラジルだけはポルトガルの植民地となったまた、フェルディナンド・マゼランによって1522年世界周航がなされ世界が丸いことが証明されると、香辛料産出するモルッカ諸島帰属巡って東側にも分割線を引き直す必要が生じ1529年にはサラゴサ条約結ばれて東側境界確定した。ただしこの境界はさほど厳密に守られたわけではなく、たとえば16世紀後半にはスペインサラゴサ条約境界西側にあるフィリピン植民地化行っている。 スペインとポルトガル植民地政策大きく異なっていた。植民地域にそれほど強力な敵国存在しなかったスペインは、アステカ帝国インカ帝国といった先住民大帝国滅ぼし先住民からの過酷な収奪行った新大陸インディオたちは天然痘はじめとする旧大陸病原菌への抵抗力持っておらず、圧政相まって先住民人口わずかな間に激減した。この減少した人口を補うために黒人奴隷多く移入され、また支配層として本国からの植民行われることで、植民地徐々にスペイン化していった。ただしもともと先住民大帝国築き上げていた地域であったため人口多く激減したのちも多く先住民が生活を続けており、先住民白人などの混血もやがて割合増していった。これに対し本国人口少なく植民地域にも火砲騎兵富んだ強力な軍備武装し政治的に成熟したアジア・アフリカ内陸王朝国家という対抗勢力多く存在したポルトガルは、あたかも古代の植民都市のごとく沿岸の都市占領し城塞築いて点と線確保する戦略をとった。こうしたことからポルトガル植民地は面としての広がり持たず内陸勢力オマーンなどの対抗勢力登場する拠点次々と占領されアンゴラモザンビークマカオゴアを除くほとんどの植民地喪失することとなった。ただしブラジル例外で、ここではスペイン同じく徐々に入植型の戦略をとるようになっていった。 トルデシリャス条約新世界から締め出されていたほかのヨーロッパ諸国も、17世紀に入ると続々と新大陸への植民を行うようになっていった。この際対象となったのが、スペインによる植民が行われていなかった北アメリカ大陸東部と、スペインの植民地統治大陸重点を移すにしたがって半ば放棄されるようになったカリブ海諸島群である。北アメリカ大陸においてはフランスセントローレンス川河口ケベック・シティー中心としてヌーベルフランス植民地建設しイギリス1607年ジェームズタウン建設し1620年メイフラワー号によってピルグリム・ファーザーズプリマス植民地建設するなど、18世紀中ごろまでに北アメリカ大陸東部中央海岸に13植民地建設していった。カリブ海においてはジャマイカイギリス領エスパニョーラ島西部サン・ドマングとしてフランス領となったが、最も争奪戦激しかったのは小アンティル諸島だった。この地は小島多く存在してスペインの統治が行き届かなかったうえ、どの島もそれなりの広さ持ち、そして土地肥沃砂糖をよく産出したためである。こうした植民地どちらかといえば入植植民地色彩強く、とくにイギリスアメリカ東部13植民地は完全な入植植民地だった。 こうして各国新大陸中心に植民地広げていく中で、特に積極的に植民地拡大していたイギリスフランスの間で17世紀以降第2次百年戦争」とも呼ばれる一連の戦争勃発した。この戦争最終的な勝者イギリスであり、フランスはとくに1756年から1763年にかけて起こった七年戦争において敗北喫し1763年パリ条約において北アメリカ大陸植民地をすべて失いサン=ドマングなどいくつかのカリブ海植民地インドなどのいくつかの植民地を残すのみとなって第一次フランス植民地帝国はほぼ崩壊した逆にこの戦争広大な植民地新たに得たイギリスは、植民地帝国としてさらに力を増していった。

※この「新大陸への植民」の解説は、「植民地主義」の解説の一部です。
「新大陸への植民」を含む「植民地主義」の記事については、「植民地主義」の概要を参照ください。

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