新大陸での最後の作戦行動 1781年-1782年
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「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事における「新大陸での最後の作戦行動 1781年-1782年」の解説
1780年暮れまでの海軍軍事行動は一貫性のないものであったが、1781年になってある程度筋の通ったものになってきた。連合軍は西インド諸島やミノルカ島、ジブラルタルといった2次的な目標に方針を変えた。イギリス軍は、防御的な動きに専心した。オランダが連合軍に加わったため、イギリス政府は北海の通商を守るために他の方面から艦隊を割かざるを得なかった。8月5日にドッガーバンクでサー・ハイド・パーカーとオランダのズートマン提督の間で激しい戦いがあった。どちらも商船の護衛にあたっていた時のことである。しかし、オランダは戦争の行方に大きな影響を与えることはできなかった。連合軍は再度イギリス海峡でイギリス艦隊に戦いを挑んだが失敗した。彼らはまた、イギリスのジョージ・ダービー提督が4月に行ったジブラルタルやミノルカ島の救援を妨げることもできなかった。しかしミノルカ島はその後厳重に包囲され、1782年2月5日には降伏を余儀なくされた。フランスは西インド諸島とアメリカで積極策を展開し、東インドでもイギリスの優位を脅かす攻撃を始めた。 西インド諸島では、ロドニーがその年の早くにオランダ参戦の報を聞いて、1781年2月3日に戦時禁制品の大きな保管場所であったシント・ユースタティウス島を占領した。ロドニーは戦利品の確保と売却を独り占めし、最近着任した副将サー・サミュエル・フッドにも係わらせなかったとして告発された。フッドは、マルティニーク島に向かうと考えられているフランス艦隊の到着を阻止するために適切な対応を行った。フランスの提督、ド・グラスは増援部隊とともに4月に到着した。彼は7月までの間、ロドニーとの戦闘を避けながら、巧みにイギリス軍の島を脅かす戦術を取った。7月になると彼は北アメリカ沿岸部に向けて移動し、8月、健康を害して帰国していたロドニーに代わって指揮を取っていたフッドがその後を追った。 北アメリカ沿岸では戦争が決定的な局面にあった。その年の前半はイギリス軍がニューヨークに、フランス軍がニューポートにあってにらみ合っていた。4月に、イギリスのアーバスノット提督が、バージニア植民地に増援を運ぶフランスの試みを阻止することに成功した。彼は4月16日にバージニアの沖合いで戦い(ヘンリー岬の海戦)、指揮は拙劣だったが主たる目的は果たされた。ジョージ・ワシントンはバージニアあるいはニューヨークのイギリス軍のどれか一つに攻撃を集中させようと切望していたが、それを実行するにはド・グラスの到着を待つ必要があった。フランスの提督は、バージニア沿岸では海軍力で優位にたっており、イギリス陸軍の司令官コーンウォリス卿はヨークタウンで孤立していた。アーバスノットの後任、トーマス・グレイブス提督は西インド諸島からフッドの増援を受けてフランス艦隊を駆逐しようとした。しかし9月5日の不本意な戦い(チェサピーク湾の海戦)で彼は敗れ、フランス艦隊によるチェサピーク湾の支配を排除することができなかった。ド・グラスは増援を受け取り、グレイブスは去った。ヨークタウンは10月19日に陥落し、北アメリカ沿岸での戦いは終わった。 フランスの提督は西インド諸島に帰り、フッドの追撃を受けながらイギリスの島々の攻撃を再開した。1782年の1月と2月に、ド・グラスはフッドの決死的な抵抗を排除してセントクリストファー島を占領した。フッドは劣勢の艦隊を率いながら、バセテールを根拠地としてフランス艦隊に何度も立ち向かった。フランスの次の目標はスペインと協働してジャマイカを攻撃することだった。サー・ジョージ・ロドニーが援軍を連れてイギリスから戻り、1782年4月12日のセインツの海戦に代表される一連の作戦行動によってその計画を頓挫させた。これ以後、西インド諸島では特記すべき作戦行動は行われていない。8月にフランスのラ・ペルーズ伯爵の戦隊がハドソン湾を襲撃し、多くのイギリス軍基地を占領し略奪した(ハドソン湾遠征)。イギリス本国ではハウ提督が1782年9月と10月に包囲されていたジブラルタルをついに解放した。
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