敗戦責任と「背後の一突き」
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「反ユダヤ主義」の記事における「敗戦責任と「背後の一突き」」の解説
大戦の敗戦責任をめぐってドイツ帝国軍では、ユダヤ人にそそのかされたドイツ革命派(共産主義者)によって背中を刺されたという「背後の一突き(匕首伝説)」が広がった。 1919年11月13日、ミュンヘンでのはじめての演説でヒトラーはヴェルサイユ条約締結の責任はユダヤ人にあり、ワイマール共和国政府はユダヤ人に支配されていると述べる。国家社会主義ドイツ労働者党は、ドイツ軍は戦争遂行の余力があったのに、共産主義者とユダヤ人に支持された政府が勝手に降伏したと主張した。ヒトラーはドイツ革命を国際ユダヤ陰謀による「国家と民族への犯罪」とし、また「戦争開始時、また戦争中に1万2千〜1万5千のドイツ国民を腐敗させるヘブライ人に毒ガスを浴びせていれば、前線の100万のドイツ兵士は救われた」と演説で述べ、支持者を獲得していった。 1919年11月18日の敗戦責任諮問委員会で、ヒンデンブルク元帥は「帝国は戦争に敗れたのではなく、背後から鋭い刃物で一突きにされたのである」と弁明し、共産主義やドイツ革命に責任があるとした。マクス・パウエル大佐、フォン・ヴリスベルク将軍、ルーデンドルフも匕首伝説の見方をした。各地で国粋主義団体が次々に結成、会員20万人の「ドイツ民族攻守同盟」に発展し、彼等は匕首伝説を信じ、敗戦はユダヤ人の責任であるとした。 1919年、化学者ハンス・フォン・リービヒは筆名リークで冊子「ドイツ崩壊におけるユダヤの役割」で、ユダヤ人はドイツ革命をそそのかし、ドイツ民族に不意打ちを食わしたとし、革命がなかったら休戦条件の受諾も必要なかったと論じ、この冊子は13万部売れた。 1918–19年、ロシア革命でウクライナから逃亡してきたシャベルスキー・ボルク(Piotr Shabelsky-Bor)は『シオン賢者の議定書』をドイツ福音教会の神学者ミュラー・フォン・ハウゼンに手渡し、1920年にミュラーは仮名でドイツ語訳『シオン賢者の秘密』を出版し12万部を売った。タイムズ紙が1920年5月に好意的にミュラーの本を紹介すると、ベストセラーとなった。ホーエンツォレルン家とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は出版費用を助成し、皇帝は夕食会で本の一部を朗読した。フリーメイソンとユダヤ人が結託して陰謀をめぐらしているという俗説が広まったため、ドイツのフリーメイソンリーはミュラーの本が出版されるとユダヤ人の加入を断るようになった。ミュラーは1912年に「ユダヤ人支配への対抗協会」を設立しており、またミュラーはフランス革命はフリーメイソンとユダヤ人の陰謀で、大戦端緒のオーストリア皇太子暗殺はユダヤ人とセルビアのフリーメイソンの陰謀と考え、ラーテナウと皇帝のユダヤ対策を批判した。ミュラーは、ユダヤ問題の解決のためにはポグロムや国外追放では足らず、ユダヤ人を閉じ込めるしかないと主張して、外国籍ユダヤ人のドイツ入国禁止、ドイツ人学校への入学禁止、金融業の国有化、ユダヤ人が経営する商店へのダビデの星の掲示義務化、ドイツ名の名乗りの禁止、ユダヤ人団体の禁止などの、のちのナチスユダヤ法のようなユダヤ人条例(Juden Ordnung)を提案し、違反したユダヤ人は死刑と主張した。全ドイツ連盟のクラースはミュラーのユダヤ人条例案を支持した。 詩人パウル・エルンストは1919年『理想主義の崩壊』で労働の分業形態や機械的な心性を批判し、『マルクス主義の崩壊』でマルクス主義を批判した。 1919年にはユダヤ系の物理学者アインシュタインに講義の自粛が求められ、1920年には実業家ヴァイラントによる反相対性理論キャンペーンがはられ、ノーベル物理学賞受賞者のフィリップ・レーナルトやヨハネス・シュタルクなどの物理学者も参加した。レーナルトはナチ党員となり「日本物理学」「アラブ物理学」「黒人物理学」「イギリス物理学」に比べて「ドイツ・アーリア物理学」が唯一本物であり「ユダヤ物理学」は最も有害だとした。1933年のナチ党の権力掌握以後、反相対性理論キャンペーンの規模は拡大した。 ワイマール体制を批判するユダヤ人もおり、左翼のクルト・トゥホルスキーなどが批判した一方で、中流階級ユダヤ人はユダヤ人がドイツで達成したものを台無しにするとして左翼ユダヤ人を攻撃した。ユダヤ系作家ヤーコプ・ヴァッサーマンはドイツ人のユダヤ嫌悪を攻撃する一方で、ユダヤ人は現代のジャコバン派だといって根なしの「教養ユダヤ人」を嫌い、ユダヤ嫌悪の責めは物質至上主義でずるがしこいユダヤ人が背負うべきだとした。ユダヤ人作家ゲオルク・ヘルマンも「イエットヒェン・ゲーベルト」で安定したドイツ中流生活を賛美した。ドイツ教養文化へのユダヤ人の同化は深く、改革派ラビの息子ルートヴィヒ・ガイガーはゲーテ協会で指導的役割を果たし、1920年代のベルリンゲーテ協会はユダヤ人が過半数を占めた。
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